日記

5/19
給食の冷凍ミカン、まずかった~。(今でもあるのだろうか?)栄養バランスを数字で考えると、本当に必要な栄養(酵素とか)のことは脇に置かれてしまうのかな。もし、給食が生命食だったら、病気とは無縁の人が普通になっていくのだろうと思う。少なくとも、主食は全粒穀物食とか、味付けをてんさい糖と岩塩にするとか。牛乳が豆乳になるだけでも、アレルギーの子や骨の弱い子が減っていくかも。子供の頃から毎日の食事で安定していた静電気も、新鮮な果物、生野菜、全粒穀物、それに岩塩があたり前の食事になって、少しずつ出て行ってくれたらうれしいな。

5/18
宅急便が来て、ハンコを持って出たら、スマホを渡されて、「ハンコじゃなくて、こちらにサインしてほしいんですけど」と言われてビックリ。戸惑っていると、「指でサインできるんで」と。え~と思ったけれど、仕方なく人差し指で書こうとすると、うまく書けず…(小さい画面で書くところも狭かった)。クリアボタンを押して、やり直し。カタカナでいいです、って言われて、なんとかカタカナでフルネームを書き終えました。ハンコか、紙にサインではダメなのか聞こうと思ったけれど、そもそもそういう用紙自体を宅急便の若いお兄さんは持っていなかったし、お昼時で急いでいたので、そのまま荷物の受け取りを終えました。でも、なんだかその後切ないような気持ちになってしまいました。以前もお店でタブレットに指でサインをするよう言われたときに、なんで指で?と思ったことがあったけど、それについては、今度からそのお店では現金で買い物をするなど、他に選択肢がある。だけど、宅急便で、今後は受け取る際に必ず指でスマホにサインしなければいけない(選択肢がない)となると、そのシステムは結構危険な方向へ進んでしまっているのではないかと…。1番大きいことは、どんな人もスマホに触れ、否応なしに静電気を溜め込まされてしまうこと。そして、指でサイン、って難しいから、お年寄りや手の動きが思うようにいかない人などはかなり大変な作業だと思う。ハンコや紙にサインより、時間もかかると思うし(これは慣れだと言われるかもしれないけど)。システムのことは詳しくないけど、多分、そうやって電子化することで、ペーパーレス化もできるし、即時に受け取り完了の確認も取れて、全国の状況も一元化されて把握しやすいなど、会社にとっての利点は大きいのかもしれない。でも、肝心の利用者側のことを考えていないなといつも思う。いろんな人がいて、それが便利な人もいれば、不便な(苦手な)人もいる。
今は多くの人がスマホを持ち、スマホに慣れ、何の違和感も持たないのかもしれない。でも、どんな時も、少数派の人の気持ちは無視されていいということにはならないはず。なんだかこういうところも、LED化がどんどん進んでしまった時と同じ感じがして、危ういなあと思ってしまうのです。

5/13
もうずいぶん昔に、コンピュータは0と1だけで動いている、と聞いて、その時はふ~ん、と思っていたけれど、素数の日記にゼロ、という言葉が出てきて以来、そのことが度々浮かんできています。素数ではない、0と1だけの世界。そこに無有日記があり、仲間たちのHPがあるということは、ものすごいことなのかもしれないと、なんとなくだけど、その意味の大きさのようなものを感じています。

5/13
フォトブックの注文受付開始から、約1年半。たくさんの人とやり取りして、自分なりにいろんなことを感じ、学ばせていただく機会となりました。都合により、今月25日で受付終了(休止)となります。これまで、たくさんのご注文、ありがとうございました。あと少しですが、よろしくお願いします。

5/12
記憶の中の優しそうな笑顔、話し声。そういう姿形からはけっして判断できない事実がある。これまでいろんな「知る」を経験してきて、ビックリするようなことも、そのことで思考が動いたり、感情が出てきたこともあった。でも、もう何があってもそこに感情が揺れ動くことはなく、ただ淡々と受け止めて、自分なりの道を歩んでいく。

5/8
転生まで操られてしまうということは、身内をはじめとした周りの人間関係や環境すべてが、自由ではないということだから、私たちは何度生まれ変わっても、生まれながらに本来の自分を生きてこられなかったということなんだなあ。転生が本来になった時…想像もつかないけれど、なんだかうれしい。
ここ数日にも増して、今日は内側からの寒気やだるさなど、いらない物質がどんどん出て行ってくれてるかのような反応があるけれど、寒気が急な暑さに変わって、ふと湿度計を見ると、35%。湿気がないというだけで、こんなにうれしいとは。

5/4
この前仲間にも話したことだけど、みんなのHPを訪れる時、それぞれの仲間に会いに行くような感じでいます。そのことを話したら、仲間はそういう風に思ったことがなかったようだけど、みんなはどうなのかな。実際にはなかなか会えなくても、いつでもHPを通して会っている感じがして、共感したり、参考になったり、考えさせられたり、元気をもらったり。だからみんなのHPの存在はとても大きいです。私のHPにも同じような感じで会いに来てくれている人がいたらうれしいな。

5/4
身に着けるもののことばかりになってしまうけれど、下着って、綿100%のものって、意外と少ないのではと思います。(男性のシャツなんかはまだあるけど)特に、女性のブラは、構造上もあるのだろうけれど、ほぼないのでは。綿が全く入っていないものの方が多いかもしれません。そんな中、今日、ハーフトップという、スポーツブラに近いもので、綿95%のものがたまたま売っていたので買ってきました。これからの季節、汗を吸ってくれそうだし、ちょっとうれしかったです。

5/3
自分の想いを言葉や行為にしたとき、そんなの理想だよ(現実はそう簡単じゃない)とか、偽善だとか、思われてしまうことがあるようなのだけど、本当にそう思ってやっていれば少なくとも偽善じゃないし、理想がみんなにとって望ましいものなら、理想を口にしてもいいんじゃないかなと思う。現実は確かに厳しいけれど、だからといって、現実に流されて、長いものに巻かれていればうまいこと生きていけるというのも、なんだか寂しい。せっかくここにいるんだから、自分の想いはそのまま理想であって、そして理想を生きる(生きたい)。数の力はなくても、想いの力は数より強いと思うから。



4/29
今回のワークを経て、身体はいろいろ痛みが出てきたり、帰りには疲れや眠気が出てきたけれど、気持ちがどこかこれまでとは違って、うまく言えないけれど、いい意味でフラットな感じというか、余計な思考や感情が動かないというか…。そしてなんだかゆったりしているような、例えば食後のコーヒーを飲んでひと息ついているような感じ。これまでなら、今の状況では心配や不安が出てきていたかもしれないけれど、そうならないって結構大きいことかもしれない。
ある状況を目の前にして、自分は何ができるだろうとか、どうすればいいんだろう、って思ってしまったりして、でも実際には何もできなくて。でも、不安や心配が出てきてもおかしくない状況で、不安にならないようにしようとか、心配しないようにしよう、って無理やり思考で抑え込むのと違って、不安や心配が出てこない、っていうのは、その状況を固めてしまわないというところでは、何かをするということよりも、もしかしたら大きいのかもしれないなと思う。「自分にできること」って、形じゃないところでの部分が案外大きくて、少しずつでもいらないものを外し、本来の自分を生きる(少なくともそういう意思を持って)、その自分なりのプロセスを一歩一歩歩んでいくことなのかな。

4/23
GAPのアウトレットが割と近くにあるので時々行きます。今日はタンクトップがなんと300円!お店のお姉さんが「私も3色買ったんですよ!」と示してくれたのが、白とグレーと紺。私はその下にあったピンクと水色と白の3色を選んだ。そして半袖のTシャツはレモンイエローと薄いピンクとペールグリーン。レジでお姉さんは「このおばさん、カラフルな色ばかり買うなあ」って思ったかもしれないけど、全部キレイな色で、それだけでもなんだかウキウキしてくる。

4/22
昨日の大阪ワークの日は家族みんなが穏やかで和やかだった。前回のワーク前後から、不安や心配も力をなくしているよう。その分、外に出れば嫌われ方も分かりやすいけれど、自分の中で、少し芯がしっかりしてきている感じがする。それだけでもうれしい。

4/21
地球が宇宙空間の中で、自由にゴロゴロと転がる様子を想像してみると、なんだか地球はのびのびとうれしそうだなって。地球が自由に動けたら、人間もどれだけ自由になれるだろう。

4/20
子供の頃住んでいたところは、ソロバンがすごく盛んなところで、小学校の目の前にも珠算教室があり、多くの子供たちが通っていた。「(いとこが)買い物の時、レジより先に暗算で合計金額を教えてくれて便利」と叔母から聞いた母は、私にもソロバンを習わせるようになり、確か小学4年生頃から6年生になるぐらいまで通った。その教室では、渡された〇級用のノートに書いてある問題をどんどん解いていき、ノートが全部終わると、次の級、といった感じになり、3級ぐらいだったからはテストをし、合格するとまた次の級へ、と進んでいき、習う=級を進めていく、ということだった。
最初はどんどんできるようになることが楽しくて、級が変わるとノートの色も変わったりするので、それが楽しくて通っていたのだけど、1級になった頃、競技部というのにスカウトされた。よく分からないままに入ると、通常の教室が終わったあとの夜から、競技部のほんの4人ほどだけの教室になって、それまで何千円、とかの読み上げ算だったのが、いきなり何十億円になって、スピードもめちゃくちゃ早くてびっくりしたのを覚えている。県で行われる競技会というのがあって、そこで優勝争いをするための部だった。結局、競技会では、緊張してしまって、何とかスピードについていって答えが出た、と思ってもソロバンを揺らしてしまって答えを消してしまったり、指が震えてしまって伝票もうまくめくれなかったり、暗算も頭が真っ白になってしまったりで、本番にめちゃくちゃ弱く、競技部の中で、私はトロフィーとは縁がなかった。だんだん、ソロバン自体を楽しいと思えなくなって、その教室をやめた。
ソロバンをやめても、暗算はずっと得意で、いろいろ便利だったのだけど、MEに出会ってしばらくしたら、暗算が以前のようにはできなくなった。びっくりするほど。歳で脳が衰えたのかなとも思うけれど、当時の無理や頑張りの中、無理やりできるようにされてしまっていた脳が、当時のような使い方をできなくなったのかなとも思う。計算できなくなっても、脳が少しでも本来になっていったらいいなあ。

4/17
支えられ、守られている。とてつもなく大きく、限りなく。そう感じれば感じるほど、自分は何ができるだろう(どう応えられるだろう)、と思ってしまったりするけれど、まずは不安や心配から遠いところにいて、元気でいること、そして、自分の役割や自分なりの歩みを止めずに、進めていくことなのかなと思う。身近なところでの分かりやすく反応している様子と裏腹に、穏やかでHappyな、何気ない融合空間。引っ張られることがなくなってきて、それだけで何かが楽で。これからもっともっと楽でいられるのかなって、安心してもいいんだなって、緊張していた何かがほぐれていく。

4/16
ワークの翌日、雨でもないのに朝からビックリするほどの湿度の高さ(なんと69%!)にガックリしていたら、今日は朝からカラッとしていて、家中の窓を開け放していたせいもあるけど、32%とかになっていて、夜にはまた50%越え。自分を含めたこの家に住む人間、この家の空間、そしてこのあたりの土地もいろいろと調整中なのかなという感じがします。湿度の高い時は、特に理由もないのに、なんだか急に落ち込みモードになることがあったり、しんどくて動けなかったり。晴れてカラッとしていると、家事もどんどんできて、朝から元気に散歩をしたり。その差の激しさに自分でも「?」です。
ワークの時に時々出てくる、地面に引きずり込まれてしまうのではないかと思うほどの、鉛が入っているかのような腕の重たさと身動きの取れなさ。EWをしていると、家でもやっぱり少し出てくるけれど、かと思うと、いろんなことがどんどんできてしまうような、身体の軽さを感じる時もあって、やっぱり重力って、生命力なんだなあって思う。本来の重力になったら、身体の動きだけでなく、細胞の働きなども全然違ってくるのかな。ちょっと想像がつかないけれど、そんなことを思うとわくわくしてくる。素数を想うとうれしくなるのは、本来の生命力の記憶が反応しているのかも。

4/13
ムカデ…最近は見ないけど(気づいてないだけかも)、数年前には時々家の外壁に張り付いているのを見たり、排水溝から上がってきたのか、お風呂場にいたことも…。ずいぶん前のことになるけど、近所の人が2階で寝ていて、気づいたら顔の横に大きなムカデがいたと聞いてビックリしたこともあった。10年以上前には敷地内にヘビがいてビックリしたこともあったし、近くの田んぼでヘビが泳いでいるのを何度も見たことがある。最近は見ないけど、よく近所の猫が敷地内に入ってきていた時期もあった。ジメジメしているのも納得…。

4/13
近所の人が電気自動車(多分)に買い換えたようで、夜遅くに帰ってきて駐車する時、私の寝ている部屋のすぐ前に車が来るらしく、独特の音が不気味で毎晩ドキッとして目が覚めます。機械音とか人工的な音は現代ではたくさんあるけれど、生命力を奪うようなものの音って特別で、身体が自然と反応する感じで緊張してしまうのかもしれません。

4/13
うちの町内は創価学会の人達がたくさん住んでいます。(もともと学会員の人達同士で、ここに団地ができると聞いて一緒に引っ越してきたようです。)なので、公明党のポスターもあちこちに貼られています。でも、結構な頻度でキリスト教系の人達が勧誘に来ます。時々(先日も)天理教の人達が太鼓を叩きながら歩き回っていて、ポストにパンフレットが入っていました。真言宗などのパンフレットも時々入っています。ふと思いました。公明党のポスターが貼られている家にも、ほかの宗教の人達は勧誘に行くのだろうか?と。それぞれ、自分たちの宗教が1番いいと思っているから信じているわけだし、他の人達を勧誘するのだろうけれど、お互い自分たちの宗教に入ってほしいと思いつつ、同じ(勧誘する)立場の人の話に耳を傾ける心の余裕はあるのだろうか。もし、お互いの話を聞いて、相手の話に納得したら、改宗することもあるのだろうか…。個人的な感想だけど、宗教にどっぷり浸かっている人は、基本的に自分の話したいことだけを話して、相手の話を聞かない傾向にある気がして、そうすると、お互い信じているものがあるという共通点はあっても、話は平行線なのかなって。もし、他の宗教の人達のことを尊重できないとすると、彼らがよく口にする、「平和」や「幸せ」というのが自分たちの宗教を信じる人限定で、みんなのためのものではないように思うのだけど…。
「信じる者は救われる」っていうけれど、信じても信じなくても、みんなが平和で、幸せでいることを基本とするのが本当の宗教なのではと思う。

4/12
あなた(みんな)のために…と言われると、誰もそれを否定できないのだけど、そう言って人のために何かをしてあげているという形をとりながら、実は自分の思い通りに事を運ぶのがうまい人。そんな人に何かをしてもらうのを断った時、態度は一変して、とても怖い人になる。

4/11
そういえば、猫の糞(正確にはジャコウネコが食べたコーヒーの実が未消化で出てきたもの)から採られたコーヒー豆っていうのがあったな。世界一高価なコーヒーだとか。美味しいのかもしれないけど、やっぱりいろんな意味で飲みたくない。

4/11
例えば、会社や学校、その他のコミュニティなどでも、そこで誰かに認められたり、人と競って優位に立ったとしても、そこを一歩離れ、そのことを知らない人たちの中にいれば、その人はすごい人ではない、ただの人としか見られないわけだから、人との優劣を感じることで生まれる優越心って、すごく限定的なものだなって思う。容姿にしても、時代や国(場所)によっても「キレイ」の定義も変わってくるし、自己満足の部分も大きいような気もする。
お金は世界共通で、ないと生活に困るから、ある方がいいけれど、あればあっただけいい、とも思えなくて、多く持ちすぎていると、お金絡みでの人間関係のトラブルも起きやすいようだし、ものすごくあたり前だけど、お金(やいろんなもの)を持っている人が偉いわけではないし…。
人はつい人と比べて上か下か、ってことばかり気にかけて、上だと思えば安心し、下だと思えば落ち込んで、を繰り返してしまうけれど、優越心を感じる時、必ず劣等感もそばにいて、そのどちらにいることも、心の平穏とはかけ離れたところにいるのだから、幸せとは言えないなと思う。それぞれが人と比べることなく、自分なりの場所で、自分なりにできることをしている時、調和あるやさしい風景が生まれる気がする。その時、その人は自分のいる場所で最高に輝けるのかなと思う。

4/10
何かあると、そのことばかりに意識が向きがちだけれど、それでも自分なりに表現し続けていこうと思います。歩みを滞らせず、表現していくことで、それぞれの場で表現してくれている仲間たちと一緒に大きく回転していけるような…。うまく言えないけれど、今この時に歩みを滞らせちゃいけない気がして、具体的に何というわけではないけれど、何かしら動き続けていたいと思います。

4/9
教えてもらったお寿司屋さんに入ったら、本当にピンク岩塩が置いてあって、すごくうれしかった。うれしくって、家族と2人でガリガリとミルで挽いて、全部岩塩で食べました。(最初から岩塩がかけられているネタもありました)お寿司を食べるといつもお醤油のせいで、異常に喉が渇いてしまっていたのだけど、今回はそんなこともなく、それから、いつもよりゆったりと食べることができたな、と思いました。岩塩があるだけで、なんだかうれしくて、空間がやさしくなるよう。そのことになぜかとてもホッとしたのでした。

4/7
インターホンが鳴って、受話器を取ると、「〇〇です」と知らない人の声。とっさにぞわっとした感じがして、内容はよく聞こえなかったけれど、宗教関連の話だとすぐ分かった。なんでだろう、宗教の勧誘の人って独特で、信じてる対象は違っても、どの人もどこか現実世界にいないみたいな話し方をする。自分だけの夢の世界にいるような、それでいて、まとわりつくような話し方。声で病まされる、ってことってあると思うけれど、それは宗教関係の人だけでなく、電車に乗っている時やカフェにいる時、スーパーなどでも、この声、って思うことがある。ただ知り合いの人と話しているらしい声でも、その声がこちらに超音波のように届くことで、不調の原因を流し込まれているような。今は後々まで影響を及ぼすことはあまりなくなってきているように思うけれど、超音波なのかなと思うような声はなるべく耳にしたくないなあと思う。

4/5
子供の頃から病気がちで、とにかく病院や薬と仲が良かった(半ば強制的)。MEと出会って、薬になるべく頼らないようになり、その必要もあまりなくなったけれど、現実として、人が薬や病院を必要とすることはあるし、それはやむを得ない場合もあると思う。ただ、病院側(医者)のスタンスとして、病人(病気)がなくなることを本当に望んでいる人はどれくらいいるのだろう?と思う。病院へ行き、診断され、病名が付くと、この病名にはこの薬です、と、薬が出され、それでよくならなければ、今度はこっちの薬、とさらにきつい(体に負担のかかる)薬が出されたり、薬が増えたりする。それでも悪化すれば、今度は手術で、悪いところを切り取ることになる。それはマニュアル化されていて、この病気はこういう経過を辿るから、こういう治療をする、というふうに決まっている。人はひとりひとり違う(状態も、病気に対するスタンスも)はずなのに、病名で括られ、決められた方針以外の自由(意思)は、ほぼなくなるように思う。もちろん、命に関わる場合は、まずは危険な状態を脱することが第一だけれど、そうでなくなったら、患者の体や金銭的負担を考え、治療をできる限り減らすことや、自然治癒力を高めることに意識を向けてもいいのではないかという気がする。今は多くの病院がLED化されてきているし、待ち時間も長い。弱った体にさらにダメージとストレスを与えることになる。それでも病院に人が溢れているのは、みんながそれだけ病院に頼っている(必要を感じている)のだけど、結局対処的な治療では一時しのぎにしかならず、原因は残ってしまっていることを表している。同じ病気になる人たちは、その病気固有の原因同士が繋がっていて、同じような症状になってしまうのだと思う。そこに、病人がいないとお金がもらえない病院側も加担している。(その原因を浄化することは、病院は望んでいない)
どうしてもやむを得ず、という場合を除いて、極力、薬や外科的な治療に頼らず、本人の自然治癒力を高めることを大切にするという姿勢の病院や医師が増えれば、この国の医療費問題や、医師や看護師不足の問題も、ずいぶん改善されるのではないかと思う。

4/4
また素数のことが無有日記に書かれていて、なにかホッとするような、うれしいような感じがして、同時にまた新たな始まりのような気もする。

4/4
本当は何も分かっていないのに、いかにも何でも分かっているかのように、言葉だけでうまくやり過ごしてきた人は、いろんなことを表面的にしか捉えられず、無責任な発言を繰り返す。薄っぺらくて中身がないことをごまかすために、言葉に頼る、そんな人を、何も知らないようでいて、すべてを知っている素朴な人(たち)が、言葉ではないところで包み込んでくれている。

4/2
風はちょっと冷たかったけれど、久しぶりに、最近できていなかった家事を朝からいろいろやって、それから散歩へ。桜の木がどんどん減っているけれど、残った木々は傷つきながらも、きれいな花を咲かせてくれていて、ちょっとほっとする。ギリギリまで受容してくれている自然界、これ以上壊れないうちに、原因を変えたい。このきれいな桜を未来の風景にも繋げたい(届けたい)。そんなことを思いながら歩いていると、風が和らいで、太陽の陽ざしがポカポカと身体を温めてくれた。

4/2
ある選択をした。自分の中でも、なんとなく近いうちにその選択をすることになるとは思っていたけれど、予想以上に早くそのタイミングがやってきて、そのことにまた不安が浮き上がってくる。でも、2つの道があるとしたら、今回選択した道が本来だと思えるし、それを選択できたことの安心感もある。ただそれは、一般的にはあり得ない選択で、本来ならば一番応援(理解)してほしい人の怒りを買ってしまい…難しいなあと思う。
物事の原因を見ずに結果だけを見て、その結果だけをなんとかしようとするのが世の中一般の常識。でも、目に見えない原因を変えずに結果がとりあえずなんとかなったとしても、原因がそのままならば、また形を変え、病気や事故、問題事として目の前に襲い掛かってくる。ならば、その原因が力をなくし、2度と同じような経験をしなくていい道を行く。厳しいけれど、それが無有日記と共に歩む自分の選択なのだと思う。



3/29
安心したり、希望が見えてくると、そうはさせない、という力がしつこく働く。せめぎあい、引っ張り合いのような、見えないけれど、そういう意思の力関係のようなものが、その時々で現象として現れる。自分の中でもまだ揺れ動くものもあるけど、すべきことが分かっているから、淡々とやっていく。何も望んでいない。ただ普通に、平和で、健康で、元気に暮らしたいだけ。ただそれだけのことが難しくなってしまうのだとしたら、その原因をどこまでも浄化していく。だから、何があっても歩みは止めない。

3/28
大事なものを守るために、なんとかしなきゃ、って力が入りすぎて、自分の重さが本来への自然な流れを滞らせてしまっていたことを感じたこの数日。いらない感情を伴う思考も、物事に取り組む姿勢も、どこか不自然で、自他共に負担を生じさせてしまっていたよう。そういう時はそれに見合った現実が目の前にやってきます。一旦、それらの感情や姿勢を白紙にしよう、って思えたタイミングで、大きなサポートの中、動いたものに、いろんなことを見つめる機会をもらいました。
こういう時にこういう思考や感情が働いてしまう、ということや、頭ではわかっているつもりでも、(不安や怖れから)まだまだ世間一般の常識というところから自由になり切れないでいることなど、余裕がなくなってしまった時の自分はひどく弱いなって。ため息が出るほど情けないし、恥ずかしいけど、これが今の自分。まだまだクリアしなきゃいけないこともあるけど、その時々で自分がどうあるかというのは、やっぱり大きく、それによって引き寄せる未来(道)は違ってくるのだろうと思います。

3/24
ある処方箋をしていたら、ワークの時のように、内側から寒気が出てきて、そのまま眠ってしまい、暑くなって目が覚めた。ふと湿度計を見ると、除湿機をかけても見たことのなかった20~30%台になっていてビックリ。寒気と一緒に私の中の湿度も出て行ってくれたのかも。

3/24
どうしてこういうことが起きるのだろうという出来事の元には、必ず猫脳人の重たい感情がある。

3/19
とても重たい話になるけれど、小学生の頃、早朝にたくさんのカラスが一斉に異様な鳴き方をして目が覚めたことがあって、その瞬間、直感的に、近くで誰かが亡くなったと分かり(感じ)、親にそのことを伝えた記憶があります。その日のうちに、本当に近くの知っている人が、悲しい亡くなり方(理由も含めて)をしたと分かり、子供なりに、とても悲しい記憶として残っています。人はいつかは身体を終える時が来るけれど、本来のその時は、ごく自然なこととして、悲しみを伴わなくていいものだと思います。そこから遠く離れた亡くなり方を喜ぶかのような、カラスの鳴き声は、一瞬にして、人を緊張させ、不安にさせ、希望を奪う。今となっては分かりようもないけれど、その方の家には猫も深く関わっていたのかもしれない。本来の生を生きられるはずの人が、夜行性動物や同質の人間のために辛い思いをしたり、長生きできないなんて、あってはならないことだから、そうじゃない道を行く。道のりは厳しくても、無有日記のある今は、その道を歩むことができるのだから。

3/18
悲しいのは、無意識に自分を通るものが、あってはならない風景の負の原因として、そこに加担してしまうこと。けっして望んではいないはずの現実、でも、自分の中に通してしまうものがあれば、それは自分にも責任があるということ。そのことで自分を責めたり、その現実に対して、そうじゃないつもりでも、どこか被害者意識を持ってしまったり、そうしかできないでいたけれど、それは現実をさらに重たくしてしまうだけだから、ただ現実を受け止め、やっぱりその中で自分なりにできることをする。それしかできない。

3/16
地球の7割を占める海。その海が本来になれば、想像はつかないけど、地球はすごく大きく変わるんじゃないだろうか。海の仲間たちも、もっと元気になって、その海の仲間たちに支えられ、私たちも、もっともっと元気になって…そうやってどんどん循環していけるのかな。そのことを思うと、何かとてもわくわくした気持ちになる。

3/15
厳しい状況の中にいると、わずかでも好転していると思えると安堵し、悪化に向かえば不安が力を持つ。その繰り返しの中、次第に自身の感情の揺れに、心身共に疲弊していく。現実はなかなか厳しいものがあるけど、疲弊しないためには、その状況にいても、そこには居続けないことなのかなと思う。
何があってもめげない(一瞬めげるけど)こと、それにはアホでいるってけっこう大事なのでは。どうしてもお気楽ではいられない時もあるけど、ふとそこから抜けられる時が必ずあって、そういう時は何か違う動きを積極的にしたりして、その時間を楽しむ。そんな時間を過ごすことで、また厳しさと向き合う勇気が湧いてくる気がする。

3/14
今日、初めて入った雑貨屋さんで、猫グッズがあまりにも多いのにビックリ。ありとあらゆる猫グッズがあって、あらためて日本人は猫が好きなんだなって思いました。少し前に行ったお店には、普通の猫グッズのほかに、招き猫が大小様々に並んでいて、その横にフクロウがあって、幸運グッズということなんだろうなと。どちらも早々に出てきたけれど、猫カフェや駅長を猫にしたりと、集客のために猫を使うことも日本人の特徴なのかも。(最近では海外でも日本の猫カフェを参考にし始めているよう)猫はかわいいという大前提で作られる(売られる)たくさんの猫グッズは、あたり前のようにいたるところに居場所を確保しているから、まずは知った人たちからその巧妙な罠から離れること、そして知らないうちに受け、そして通してしまった影響を力なくさせることが大事なのだろうと思います。

3/14
他の人もやっているみたいだけど、私もしばらく前に遊び心でブラック岩塩のペンダントを作って身に着けています。ブラック岩塩の塊を程よい大きさに割り、穴を開け、手芸用のワックスコード(コットンの細い紐にワックスでコーティングしたもの)を通してできあがり。タガネで割ると、岩塩の性質で割とまっすぐに割れるので、角が痛いかなと思って少しやすりをかけたけど、時々握ったり、服の中に入れて、直接肌に触れるようにしているので、いつの間にか角が取れて丸っこくなってきました。もともと日曜大工的なことが結構好きで、家にはいろいろ工具もあるので、あっという間にいくつかできました。形もまちまちで、ブラック岩塩もパキスタン産とインド産では色も随分違うので、それぞれ個性的でおもしろく、着けていると、いつも岩塩と一緒な感じがして、なんかいい感じです。

3/12
ある医療関係者の人に、「健康にも関わることだから、医療関係者の方にも見ていただきたくて」とLEDフォトブックを渡したところ、映像に驚きながらも、「なぜこれが医療(自分の仕事)と関係があるのか」と質問された。LEDを浴びたことで、果物や野菜が変質してしまうなら、当然人体への影響を疑ってもいいと思うのだけれど…。やっぱり多くの人達は、果物や野菜、木々や街並みが傷つき、壊されても、そのことは、どこまでも自分とは関わりがないこととして切り離せるんだなと思ったけれど、同時に、医療に携わっていながらも、本当に人々の健康に関心がある人は少なく、結果としての治療(薬)には詳しくても、病気にならないためにはどうすればいいか、何に関心を持つべきかというところまでは意識が向かないのだなと思った。
人は、想像力を働かせることができるはずで、その場合の想像力は不安や心配と結びつくそれではなく、地球本来が元気になるための知恵に繋がるものでありたいと思う。

3/11
大したことをしていないのに、朝から疲れがひどくて動けない日もあれば、前日は結構疲れたはずなのに、朝から1日元気で、あれこれ動いても疲れない日もあって、今日もそんな1日。何日分かの用事を1日で済ませてもまだ動けそう。本当はこんなもんじゃなく、もっともっと元気なんだろうな。
日常生活の中で、こういう時にしんどくなる、というパターンがある程度分かってくると、その手前でできるだけそういう状況と違う動きをすることで、ひどい状態に陥らなくてすむようになる。やむを得ずそうできない時でも、その時々で違う選択をすることで、以前より長引かずにいられるよう。
受容するって、あたり前だけど、諦めるということとは違うから、現実を受容しながらも、その現実をひっくり返す時が来るのを諦めはしない。悔しさ(怒り)とか、悲しさ(切なさ)とか、不安(心配)とか、なくてもいい感情と向き合い、手放すことをひとつひとつ。そして、ここにいるからこそできることを最大限に。

3/7
フォトブックの注文がまた続くようになったなと思うと、自分の縁でもフォトブックがまた流れ出す。やっぱり何か連動しているんだなって思う。
いろんな人とやり取りする中で、短い言葉でも、その手前では思考が強く働いて、いろんな要らないものがくっついてこちらに届いているのを感じたり、長くても、その人がふと感じるままを言葉にしてくれたんだなって感じる時もある。コミュニケーションって、やっぱりエネルギー。あれこれ考えながらではなく、お互いにふと感じるままの想いが響きあうと、そのあとも、心身共に軽くいられてうれしい。

3/4
岩塩のお店の人とまたいろいろと話す機会があったのだけど、今年に入って、テレビや雑誌などで取り上げられて、ちょっとした岩塩ブームになっていて、とても忙しくなってしまったとのこと。(「無有日記」のテーマに取り上げられるものは、世の中が反応しているのか、タイミングよくメディアなどでも取り上げられることが多いなと思う。)特に食べものや体操など、健康に関するものが次々とブームになっていると思うけれど、本当にそれが効果のあるものなら(良いものなら)ずっとそれを続ければいいわけだから、ブームはそうは起きないと思う。でも、それだと儲からなくて困る人たちが次々とブームを作り、それに乗っかる人たちに支えられる現実があるのだと思う。テレビや雑誌の特集などで、新しいテーマで健康に関わるものを取り上げると、きっと視聴率が上がったり、売れ行きが良かったりというふうに。(ただ、その取り上げられる食品だったりも、例えばサバ缶がいい、と取り上げられる裏には、缶詰業界がメディアに何らかの利益を与えて、ブームを作っている、というようなことがあるのでは、と思う。)
岩塩は、出番が来るまでずっとそばで見守っていてくれたかのように、すっと生活に溶け込んでくれて、今ではなくてはならない存在となっている。それもごく普通に。決してご利益的な発想が近づけないから、単なるブームでは終わらない。

3/3
ふと感じたことが無有日記にタイムリーに書かれていて、ああ、今はそういう時なんだなと、自分の体験を通して確認させてもらっているよう。音の送り手たちとの融合をもっともっと深めて、自身の原因を高めていきたい。

3/2
先日、化学物質過敏症の人達の様子をたまたまテレビで目にしたのだけど、かなり生活が大変そうです。農薬はもちろんのこと、建物の接着剤、建材そのものなどに含まれる化学物質をはじめ、洋服の柔軟剤やタバコなど、あらゆる化学物質に反応して、頭痛がしたり、顔がただれたようになったり…。対処法はとにかくそれらを避けることだけど、現代の生活では、それらを完全に避けることはなかなか難しいよう。その様子を見て、その人達はLEDは大丈夫なのだろうかと思いました。私自身、タバコはとても苦手で、カフェなどで吸っている人がいると、すぐに喉が痛くなり、それは帰ってからも続いたりするし、近所から漂ってくる柔軟剤の香りも結構きつく感じます。以前、実家に泊りがけで行って、衣類を洗濯した時、その匂いに気持ち悪くなって、家に帰って何度か洗わないと落ちず、以来、石鹸を持ち込んで手洗い(洗濯機にも染みついているので)するか、家に帰ってきてから洗濯するなどしていました。私はそれで体調を崩すというところまではいかないけれど、LEDに反応する人たちは、タバコや柔軟剤、化学物質の匂いなどに敏感な人が結構多いのではと思います。化学物質過敏症の子供は、学校で友達の服に着いた柔軟剤や、友達の親が吸ったタバコの匂いにも反応して熱が出たり、鼻血が止まらなくなったりしていて、そのことをその子の親がクラスで説明していました。同級生の中にはそれまでズル休みだと思っていた子たちもいたみたいだけど、事実を知って、ここからどうなるのかなとちょっと気になっています。友達が具合が悪くなって学校へ来られなくなっているから、柔軟剤を使わないでって、お母さんに言ってくれるだろうか。お父さんの吸うタバコの匂いがボクの服について、その匂いで友達が熱を出すから、お父さん、タバコを吸うのをやめてくれる?って言うだろうか。そしてもし、そういうふうに子供たちから聞いた親たちは、どう答え、どういう選択をするだろうか。LEDのことにしても、化学物質のことにしても、基本は相手の気持ちに立って動けるかどうかな気がします。それがあることで辛い思いをしている人がいると知った時、でも自分は平気だから、みんなもやってるから、なんで自分がわざわざその人(少人数)のためにやめなきゃいけないの?ってなってしまうのか、それとも、せめてここでだけでも元気でいられるといいよね、って、そのためにできることをしようとするか…。そういう小さなところから動きができることは、LEDをはじめ、身体によくないのにみんながあたり前に使ってしまっているいろいろなものが見直されることに繋がるのではないかと思います。

3/2
いろいろな経験をし、いろいろなことを知る中で、中庸ということが、自分なりにまた深く響いてきます。どちらでもあり、どちらでもないという感覚は、自分の中で、より幅と深みを増し、たとえどんな存在であっても、目の前の人を生かし(変化に乗せ)、同時に自分や大事な人を守ることができるよう、自分を強くしてくれる気がします。隔たりを持っていては、とても縁ある人たちを包み、生かすことはできないから、ただ、事実を受け止め、その上で、今この場所にいる自分だからこそできること、すべきことを淡々と。そのことをすでに分かっているからこそ、そのタイミングが来るのだろうと思います。知ることで何かが変わるわけではないけれど、知ることで深い安心感の中、自分の中の芯がどこかしっかりするよう。人間的な部分で、身近な人を大切にするということと同時進行で、違う自分が、もっともっと回転して、生命本来の仕事をしたいとウズウズしているようです。

3/1
ねこの日記」。一見ほのぼのしていてかわいい。でも読むと(猫好きの人にとっては)強烈。。ただ、猫好きと思っている人が読んだら、どこかが楽になって、実は猫好きと思い込んでいただけだった、ということに気づくかもしれない。

3/1
仲間から、市内に岩塩のお店(倉庫)があることを教えてもらい、電話でいろいろお話したところ、小売りのお店ではないのだけど分けてもらえることに。パキスタンの人が現地で自社工場をやっていて、そこから直輸入なので、これまで買っていたより安く買えてうれしい。ハート形や丸、ピラミッド型などの置物もあったので、いくつか買ってきました。今度はもっといろいろ買ってこよう。岩塩って、食べても、身体につけても、置いてあるだけでもうれしい。もっともっと岩塩と仲良くなりたいな~。



2/26
相手に依存させるということは、相手の人が自分で考え、判断し、自分の力で解決できることを応援するのではなく、自分に頼らせてしまうことでその機会を失わせてしまうこと。助け合うのと依存するのは違うという、あたり前のことを伝えられなかったかつての自分が、若い頃の苦い思い出と共に浮かんできました。しなくてよかった経験もいっぱいあるけれど、それも含めて自分を成長させてくれる機会だったと思います。

2/23
周りに揺れ動かず、ただひたすら原因を生きる。脆さの裏返しの強気の姿勢ではなく、関わる世界や人を包み込める、強さとしなやかさを持てたら…。

2/22
なかなかタイミングが来なくてHPの移行ができなかったけれど、ふとやってみようと思うままにやってみたら、すっとスムーズに移行できました。新しいアドレスは、いつも太陽がそばにいてくれるようでうれしいです。

2/21
いわゆる貴金属というものには昔からあんまり興味がなくて、若い頃はプレゼントされた指輪とかしていたけれど、ちょっとしたファッションの一部でしかなく、特にそれらに価値を置くことはありませんでした。結婚指輪もいつしかしなくなって、初めて外した時、なにか解放されたような、指だけでなく、全身が自由になった感じがしたのを覚えています。そういうものから縁遠い今、あらためて貴金属とか宝石、ってなんだか不思議な言葉だなと思っています。貴金属の反対語に卑金属、という言葉が存在しているのをたまたま知って、さらに違和感を感じました。金属や鉱物の中に特別な価値を置くことで、これまでどれだけの犯罪(争い)が起きたり、人々の否定感情の元になっているのだろう。金塊・ダイヤモンドなどそのものに対してや、金(銀・プラチナ)の投資などといった形で、人間の欲が絡んでしまうというのは、地球には元々ない性質のものだなと思います。もしかするとそれらはすべて、元々地球にはなかったものばかりかもしれない。としたら、それらを身に着けることで、知らないうちに何か動きを抑え込まれて(縛られて)しまっていることもあるのかなと。地球本来の元素はすべて地球そのものであり、地球の生命を生かすためにあるもので、所有欲(優越心)を満たすためにあるものは、調和そのものの地球には似合わないなあと思うのです。

2/19
今は事件や事故、病気などがない限り、人の命が奪われることはないけれど、少し前の時代までは、人の命がとても軽く、ちょっとしたことで簡単に奪われてしまっていた。それが難しくなった今、直接ではなく、その原因を作ることで、非生命の意思を持つ存在達は、誰にもわからないように人の命を奪っている…ということは、ほとんどの人は思いもしないので、「運が悪かったね」という言葉で片付けられてしまったりする。でも、本当はそうじゃないこと、本当は事件も事故も病気も、全部なくてもいいものだと知ったうえで、ふとニュースなどを目にすると、その背景にどれだけ大きな目に見えない力が働いているのだろうと思います。中には自分の身体(命)を使って、その力に加担(加勢)している存在もあるのだろうけれど、いずれにしても、私たちはずっと事件、事故や病気があるのがあたり前という中で何十年か生きてきてしまったので、まだ一般的な世の中の価値観から抜け切れない部分があるのかもしれないと思います。そしてそれは不安と繋がっているとも。そこからどれだけ自由でいられるかが、新たな原因を引き寄せ、望ましい未来へと繋がるカギとなるのかもしれません。

2/17
地殻も地表も、大気もすべて地球本来のものではなくなっていれば、たとえ健康な心身を持って生まれてきたとしても、その中でただ生きているだけで病んでしまう。呼吸をすれば肺の中に本来ではない酸素が入ってくるし、身体の中に生命本来ではない物質が流れれば(廻れば)、すべての細胞は辛さを覚えながらも受容し、それを普通のこととしてしまうしかない。その度合いは地球上でも様々で、非生命的なそれが色濃くある場所では、静電気も停滞し、気温の低さと湿度の高さがその土地の気候として定着してしまうのかもしれない。この土地に住むようになって、竜巻が起きるほどの春先の暴風と、寒くて湿気が多く、カビの生えやすさと、あり得ないほどの結露にビックリしてしまったけれど、いつしかそれをこの土地独特の性質だと諦めていました。それも、ようやく変化の波に乗る機会がやってきてくれたのかなと思います。この季節に、加湿器ではなく、除湿器を使わなければいけないほどの我が家のリビングも、今日はいつもより過ごしやすい気がします。

2/15
時々思うことだけど、夜行性動物をはじめ、非生命の意思を持つ存在達を「敵」とは思えなくて、だから拒絶するとか、毛嫌いする(怖がる)とか、そういう感覚はあまりないかなと思います。(種類によっては苦手なものも…)例えば、もし猫が自動車事故にあって死んでしまったのを見れば、やっぱりかわいそうだと思うし、ただそこに変な情が絡まなければいいんじゃないかなって。今存在していることは事実だから、要はその存在達から影響を受けないよう、できる限り接点をなくし(距離を置き)、そのうえでその存在達が力をなくす道を行ければいいのかなと。ゆくゆくは、その動物たちは地球から姿を消すのかもしれないけど、それまではうまく住み分けができればいいのだろうな。

2/15
自分も周りも元気で、何の問題事もなく、毎日好きなように生きられて、それで幸せ…なら、無有日記と縁する必要はなくて、「どんなに社会が病んでも、心ある人たちが辛く、苦しい思いをしていても、自分たちさえ健康で、何不自由なく、幸せに楽しく暮らせればそれでいい」という人達が圧倒的に多い中、このままじゃいけないと、ここにいる。辛く苦しい思いをしている人たちの上に成り立つ今の社会をこのままにしたい存在達からすれば、それを変えようとする存在はジャマでしかなく、いろんな形で動きを止めようとするのは当然のこと。だから、ここにいるということは、それなりのことがあることも含めて覚悟をしてきているのだと。今いる環境も、現実も、選ばされたとしても、それもすべてどこかで分かっていて、それでもその必要性からここにいる。そのことに一切抵抗せず、すべて受容し、今自分がいる場所で精一杯できることをする。ここからが本番。

2/14
ワーク2日目の朝、電車を待ちながら、初日に教わったある場所のイメージをしていたら、太陽が光り輝いていて、思わず目をつぶって太陽の方へ顔を向けると、頭と顔がどんどん熱いぐらいになってきました。あったかいな~、ストーブいらずだな~、なんて思いながらイメージし続けていると、太陽と頭、そしてイメージした場所がひとつの線で繋がった感じがして、そのうちだんだん自分の身体が太陽の方へ吸い寄せられるような感じと共に、身体がどんどん消えていくような、太陽と一体になったような、そんな不思議な感覚がありました。それはとても穏やかで、心地いい感覚でした。太陽にサポートされながら、太陽と一緒に歩んでいるような、そんな今にいられることは、とてもうれしいことです。

2/13
痛みや不調を抱え、病院に行くと、その症状(現象)に合わせた病名がつけられ、そこから病気が始まる。いったんそれが始まると、検査や薬、時には外科的治療と、本人の意思は脇に置かれ、病院の思い通りに事が運ばれていく。けれど、その病気の原因には非生命的な意思を持つ存在(夜行性動物)がいて、形なきところでの働きかけが、その対象となった人の心身を蝕み続けているのだから、いくら薬で治療しても、一時的な対処にしかならず、原因はそのまま。事故や問題事も同じ。そのことを知る今だから、その原因をどこまでも浄化していく。薬や病院に頼らなくてもいい道、病気でいなくてもいい道があれば、たとえそれが厳しい道のりであっても、その道を行く。そして、非生命的な意思を持つ存在達が力を失くす道を歩んでいく。淡々と、でも覚悟を持って。

2/11
なんにでも言えることだと思うけれど、いい悪いというところで二者択一的に物事を考えたりしてしまうことで、余計な思考を使ってしまい、滞りの原因となる(つかまってしまう)ことがあるように思います。
例えばアルミニウムのことでも、いろんな食品の袋の内側に使われていますが、レトルト食品のように、そのまま熱を加えるものは避けた方が無難かなと思うけれど、基本的にアルミニウムが食品に直接触れるのではなく、アルミニウムの上にビニールコーティングされているものが多いように思うので、ただ食品が入っているだけのものについてまで、アルミだからよくない、となってしまうとしたら、それは少々過剰反応かなと思います。LEDの光を遮ってくれるという部分では、役に立つとも思うので、あまり神経質にならず、状況に応じて、なんでも柔軟に考える余裕があるといいかなと思います。昨日買った、おいしいコーヒーを飲みながら、ふと思いました。

2/9
自分が元気でいることで、周りの人たちも元気になったり、いろんな問題事(と思えること)も変化に乗せられるような、そんな原因を生きられたら…。そう思いながら歩んでいても、自分にその力がなかったり、それ以上にそうはさせないという強い力が働いたりして、時に予想もしないような現実と向き合わざるを得ないことがあります。これぐらいは自分でなんとかしなきゃ、という、変な思考(我慢)が働いて後手後手になり、物事をより大変な状況にしてしまい、周りに負担をかけてしまうことも、これまでに何度かありました。弱い自分を感じたり、反省や後悔、不安も出てくるけれど、そこに留まるより、今の状況を原因に変えて、少しでも、望ましい未来を引っ張れるよう、今自分にできることをしていくしかないと思います。非生命の意思によって引き起こされる人々の辛さや悲しみの風景は、永い間続いてきていて、それぞれ幾度の人生でも経験してきたこと。それを今回の人生でひっくり返すのだと思うと、今回の人生の出来事だけを切り離して見ることはできません。現実の中に入り込んでしまわずに、少しはその外側から見る余裕ができているかなと思えるのも、無有日記と共に歩んできたからこそだと思います。非生命的な力の正体が次々と明らかにされる中、そのひとつひとつと向き合い、浄化しながら一歩一歩歩んでいきたいと思います。

2/3
岩塩を摂り始めて、何人かの仲間たちがシミがなくなったり、ブツブツが取れたり、皮膚に何らかのうれしい変化が起きているけど、私は生命食を始めてだいぶ薄くなったものの、若い頃からたくさんあるシミには特に変化がないと思っていました。でも、昨日顔を洗っていてふと気づいたのだけど、小さく皮膚の盛り上がったシミが、取れたわけではないけど、盛り上がりがほぼなくなって、ずいぶんと平らになっていました。なんだか不思議。以前から代謝が悪いことは自覚していたけど、少しだけ、代謝がよくなったのかな。最近は化粧水もほとんど使わなくなり、食生活も、その他の色々な部分でも、どんどんシンプルになってきている気がします。

2/2
どんなに厳しいと思えるテーマであっても、それが目の前にあるということは、それを浄化すべき時にいるということ。そして、それを浄化できる今にいるということ。
今の環境がどうであれ、これまでの幾度の人生で共通の経験があり、同じく病んでしまったのなら、それは誰にとっても必要なテーマ。そのひとつひとつと向き合い、浄化していく中で、また新たな(本当の)自分と出会える。そんなうれしい時にいるんだな。言葉にしてもしなくても、何か優しい想いがいろんなところで行き交っているような。そんなうれしさの中にいる。

2/2
猫といえば、数年前のことを思い出します。いつもより遅く、薄暗い時間に犬の散歩をしていると、どこからか子猫の鳴き声がして、探してみると、小さなコンビニのビニール袋に入れられて、小さな子猫が草むらに捨てられていました。ビックリして、どうしていいか分からず、とりあえず家に連れて帰り、猫を飼っている仲間にアドバイスしてもらって、猫用のミルクを買い、飲ませました。でも、その猫を見つけてから、犬が異常なくらい吠え続け、家の中が大騒ぎになり、でも見捨てることもできず…。一時的に仲間に預かってもらったり、誰かに飼ってもらえないかと他の仲間に相談したりと、仲間も巻き込んでしまいました。預けていた仲間から猫を引き取った帰り道では、LEDの車の眩しさと激しい雨も相まって、けっこう大きな自損事故を起こしてしまい、今思うと、当時は相当注意力もなくなっていたと思います。自分が見つけた以上、自分で飼うしかないかなと思い始めた時、ワークがあって、ムーさんに相談することができました。そもそもその状況に出会うこと自体、あり得ないことのようでした。ムーさんのアドバイスで、結局私が飼うことはありませんでしたが、アドバイスをもらわなかったら、今頃どうなっていたのかなと時々思い出していました。変な例えだけど、もし、コンビニの袋にヘビが入っていたら、連れて帰ることはなかったはずで、産まれて間もない(2週間ほど)子猫だったから、放っておいたら死んでしまうし、かわいそうだし…という気持ちが働いたと思います。そういう見た目の分かりにくさという点では、ヘビやカラスとは全然違う上手さがあるのかなという気がします。当時の自分自身の動き(判断)のおかしさとともに、(せめて自分の力で生きられるようになるまで)自分が世話をできなかったことに、ずっとどこか無責任というような、負い目を感じていたけれど、こうしてみると、一連のことがなんだか納得できて、その時の選択に、ようやく安心できる感じです。



1/30
このところ、家族の用事で毎日のように出かけていて、それぞれの場所で出会ういろんな人たち。特にここ数日は、ちょっとほっとする出会いが多くて、何かが少しずつ変わってきたような。
身体が動かない、と思う日も、思い切って出かけてみると、意外と動けるようになったり、とにかく何も考えず動くようにしていることで、自然と何かが変わっていきます。いろんなことに意味づけせず、今目の前のことをそのまま受け止め、次へ行く。淡々と過ごしている中で、理解するまでもなく、その理由は自分の中に溶けていくような気がします。

1/26
ちょっと不思議な感覚だけど、いつも散歩をしている道で、ある場所に差し掛かると、急に太陽との距離が縮まった感じというか、太陽の輝きが増すように感じて、ホッとすることがあります。この辺りは高い建物はなく、何かで遮られるということがないので、そこまでの場所は、実は空気の質がなにかおかしいのかな、と思ったりしています。同様に、そう感じてしまう場所は、いつも風も冷たく、強く吹いている感じです。(もともとこの辺りは、風がとても強く吹くのですが…)ほんの短い距離でも、息のしやすさ(しにくさ)があったり、何も遮るものがなくても、太陽との距離を感じてしまったり…。空気(酸素)は見えないはずだけれど、その場所場所で、質が様々に違っているということがあるのかもしれません。そして、それはその土地の重たさとも繋がっている気がします。その違いが感じられたとしても、それをどうにかできるわけではないかもしれないけれど、その微妙な感覚があることで、不必要にそういう場所に長くいたりして、病んでしまうことを避けられるのではと思うから、いつも自分の中の微妙な感覚を大事にしていたいなと思います。

1/26
昨日、味噌汁のことを書いてから、ふと思い出した味噌のCM。味噌汁のことを「おみおつけ」っていうんだっけ。漢字で書くと「御御御付」だと、昔知った時、「御」が3つもつくなんて変だなあって思ってたけど、今思い出すと、なんだかちょっと気になる。

1/25
体調のせいもあって、ここ1年ほどは手ごねのパンを作ることから遠のいていました。(パンケーキは焼いていました)仲間たちも書いていたけれど、岩塩に触れてから、パンを焼きたくなって、また最近焼き始めました。といってもこねる時間はほんの数分、まとまればいいかなという感じで。いつもはレーズンを入れたり、クルミを入れたりするけれど、岩塩のパンはシンプルな味を楽しみたくて、ちょっと多めの岩塩を入れただけのプレーンなパン。ひとかたまりのまま焼いてから、スライスしてまたオーブンへ。カリッとして、サクサクで、トーストしただけで、何もつけなくてもとってもおいしい。小麦の味が引き立つ気がします。
岩塩生活になってから、自分では醤油や味噌、つゆの素etc.を使わなくなりました。元々味噌汁は普段から飲まなくて、家族が飲みたいときは作っているけれど、自分はたまにサバの味噌煮を作る時ぐらいしか味噌を食べることはなくなっていました。お刺身も私は岩塩、家族は醤油。料理の味付けは岩塩で、家族が醤油の風味も欲しがるかなと思うものについては、自分の分は岩塩のみで先に取り分けておき、家族の分は仕上げの香りづけ程度に軽く醤油を。それも最近はほぼ岩塩でOKみたいです。サバの味噌煮はサバの水煮(岩塩煮)に変わり、物足りない人は醤油をどうぞ、という感じになりました。でも家族もほぼそのままでいいようです。こんにゃくあたりから、(元々そんな感じだったけど)さらに家族みんなが同じものを同じように食べなきゃ、っていうのがなくなってきて、今はまずは自分が実践できていれば、家族は家族の自由でいいよね、っていう感じになっています。お椀や茶碗を使わなくなって数年経つけれど(今はみんなが何にでも使える食器を使っています)、これまであたり前に使ってきた、和風な感じの調味料や食材からも、ちょっと距離ができてきて、ますますこうでなきゃ、がなくなってきた気がします。

1/22
うちのだんなさんの会社は、前身が公社だったというのもあってか、社員はみんな自動的に自民党の党員ということにさせられ、会費を自動的に引き落とされるという、とても不自然な状態にあります。(だんなさんは自民党を応援しているわけではありません)そのことを知った時、やめられないの?と訊いたけれど、立場上難しかったようで、毎年「カンガエルカイ」という、何を考えるのかよく分からない名前で7000円が引き落とされるのを、納得いかないなと思いつつ、そのままにしているしかありませんでした。数年前、また思い切って訊いてみたけど、めんどくさいとかそんな理由で断られ…。でも、去年、引き落とされている「カンガエルカイ」の文字を見て、やっぱり、何の活動もしていないし、自民党を応援しているわけでもないのに、社員というだけで、強制的に数字の上だけでの党員になったり、会費を取られたりするのはおかしいし、気持ちがそうでなくても結果的にそのお金が資金になり、自民党を応援することになると思い、だんなさんにもう1度、退会できないか訊いてみました。そしたら今度はすんなり手続きしてくれることになり、結局は電話一本で事は済みました。でもその電話の時に、「退職されるんですか?」と相手の人に言われ、いいえと言うと怪訝な様子が伝わってきて、やっぱり普通は退職するまで自民党員でいることがあたり前という空気なのだと分かりました。
自分が働いているわけではないから、直接動くことはできないし、だんなさんも会社という組織で働いてお給料をもらっている以上、自分の意志を通すことが難しいこともあると思うけれど、退会できた時、なんだかとてもホッとして、楽になれた気がしました。いろんな形で繋がりを持たざるを得ないことってあるけれど、自分が感じるまま、できる限り動くことってやっぱり大事だなと思いました。

1/22
ずっと、カラスの姿をほとんど見かけなくなっていたのに、ここ数日はカラスがたくさんいて、すごい声で鳴いている。先日は100羽以上いるかという感じで、青空に渦巻きながら飛んでいて、まるで黒い雲のようだった。散歩をしていると、頭上の木の上にもたくさんいて、やっぱり鳴きながらグルグル回っていた。さすがにちょっと不気味。今日は1羽、ずっとこちらを見ながら「アッ、アッ、アッ、アッ、アッ、アッ」って、繰り返しすごい勢いで鳴いていた。なんだか威嚇されていたような…?これまでが変わっていく中、カラスたちも何か異変(居心地の悪さ)を感じているのかもしれない。

1/22
朝起きた時、今日は寒いな~と思って窓を開けると、車にも霜が降りていて、そういえばいつもなら、この時期は車が凍っていてドアも開かない、雨戸や窓も凍って開かない、というのが普通だなと気が付いた。今年はまだそれがない。午前中に散歩に行くとき、まだ寒いかも、と、スエットのパーカーの上からベストを着ていったら、すぐに「失敗した…!」と。暑くて脱いでしまった。1月にパーカーもあり得ないのに、暑いと感じるなんて、やっぱりこれまでにはないこと。今も部屋の暖房は切ってしまったのに、ちょっと動くと汗ばんでいる。今年の1月は気候も自分も初めてのことばかり。

表現した後、しばらくして、もう必要ないなと感じることが時々ある。その時はいろんな意味で必要性を感じても、表現したことで何かが変わり、その役割はもう終わったような。合ってるとか、間違ってるとか、ではなく、内容とも違ったところで自分なりに必要と感じること。そのことがいろいろ影響しあうから、責任も大きいけれど、やっぱりその時々感じるままに表現していきたい。

1/20
先日のワークで、会場がLEDになってしまったため、手持ちの蛍光灯のライトを持ち寄った時のこと。その前の週、お天気が悪く、夕方にはノートの文字もかなり見えにくくなっていたため、少ないライトで少しでも明るくするには…と、いろいろ考え、いろいろ用意し、早く来た数名であれこれ考えてセットしていたのですが、ムーさんが「明かりがあればいいんだ。前回と違う(状態)ならいいんだ」というようなことをさりげなく言われたのが、とても心に響きました。ついつい、いかに明るくするかというところに意識が向いてしまい、形や結果というところを大事にしてしまっていたけれど、形ではなく、違う(新たな)原因を創るということ。それはいつでも、何についても言えることで、形を整えること(行為)ではなく、原因を大事にするという、基本中の基本。ムーさんの世界にいさせてもらっていても、まだまだ余計な思考を働かせ、シンプルさを忘れてしまいがちな自分。そのことをあらためて感じさせてもらう機会となりました。

1/17
片づけをしていて、以前買ってほとんど使っていなかった制汗剤に「ミョウバン」の文字を見つけて、そういえば、ミョウバンって昔からナスや黒豆の色止め、ゴボウのあく抜きなど、食べものにも使われているけど、そもそもなんだろう?と、ふと気になって…。そこで初めて知った、ミョウバンの中身。「硫酸カリウムアルミニウム」ということで、アルミニウムが入っていました。ベーキングパウダーでアルミフリーのものを選んでいたけれど、そうでないものはこのミョウバンだったようで、菓子パンなどの膨張剤としても使われているそう。制汗剤も、科学的な物質はよくないからと、最近は天然のミョウバンを使っているものがけっこうあるみたいだけど、よく見たら、ミョウバン=「アルム石」って制汗剤に書いてあって…アルム石って、そのまんま文字にアルミニウムが入ってる(Alum)。天然成分だからいい、というわけではないんだなということが分かりました。身近なところでけっこう使われているアルミニウムや鉄、その他たくさんの本来でない物質。あまり神経質になって、あれもダメ、これはどうなの?っていうのはかえって危ないと思うけれど、ベーキングパウダーに普通にアルミフリーのものを選ぶように、口に入ったり、肌に直接触れるミョウバンについては、避けた方がいいかなと思いました。

1/15
岩塩があるだけでうれしい。食事の時はもちろん、お茶の時も、岩塩の粒を口に含んでは飲み、含んでは飲み、で、なんだか結構な量を摂っているようだけど、やっぱり不思議と喉は乾かないし、身体が欲しているまま、好きなだけ摂っています。先週のワークで、痛々しいほど荒れていた仲間の手が、1週間後に見違えるほどきれいになっていてビックリ。やっぱりお肌にはいいらしいので、別の仲間にもらったバスソルトを使ったら、お湯のトロンとした感じと、肌への優しい感じにすっかりはまってしまい、今日はブラックソルトをたくさん入れてみました。お湯はちょっと黒っぽくなったけど、肌がすべすべする感じで、毎年冬になるとかゆくなってついつい掻いてしまっていたふくらはぎも、かゆみが落ち着いてきました。こんにゃくの時もうれしかったけど、岩塩はなんだか世界が広がる感じ。いろいろと楽しんでます。

1/15
ずっと、どこかで「自分は何もできていない」という感覚というか、申し訳なさみたいなのがあって、何かの時に、ふと浮かんできていました。実際、自分のしてきたこと全て、ME(ムーさん)によってサポートし続けてもらって、なんとかやってきたことばかり。もちろん自分たちが健康になることや、これまでの価値観etc.から自由になることなどもとても大事で、少しずつその道を歩んできたけれど、それがそのまま地球の本来、というところには繋がらず…。それがようやく、ほんの細い道筋でも、少しだけでも、積極的にそこへと繋がる道ができた(作ってもらった)のかな、と思うと、やっぱりうれしい。とはいえ、EWのたびに、まだまだ反応がすごくて、実際は全然できていないのだろうけれど、それでももう、そんなこと言っていられないのだろうと。今、自分ができることがあるなら、淡々と、でもしっかりとやっていこう。

1/11
前回のワークで、またさらに深いところから出てくるもの(症状)。痛みとかしんどさの原因がどれほど蓄積しているのだろうと、自分でも呆れるけれど、通るべき道なら、まっすぐ通るだけ。
実践する中、これを(これさえ)すればいいとか、してはいけないとか、こうじゃなきゃとか…特に食関係の時にそういう思考が働きやすくなるような気がするけど、なかなか実践できないことだけでなく、特別、こだわり、ご利益的になってしまうことも、どこかMEへの抵抗があったりするのかなと思う。実践って、そのタイミングが来た時に、ごく普通のこととして、その人の歩み(健康)を応援してくれるもののような気がして、それを楽しみながら、普通にやっている自分がいればいいのかなって。そうではない時、本来の自分でないものがまだ自分の中にあるとしたら、それを見つめる機会になるのかな。それもまた実践のような気がする。

1/9
硫黄の香りのブラックソルトがお気に入りで、サラダなどにはブラック、料理にはピンク(白)、という感じで使い分けている。先日届いたブラックソルトにピンク(ローズ)ソルトとブラックソルトの成分表示が書かれていたのだけど、予想通り硫黄や鉄はブラックソルトに多く含まれていて、カリウムもブラックの方がかなり多い。一方、ピンクソルトはブラックよりカルシウムがかなり多く、マグネシウムも多い。ナトリウムはほぼ同じ。岩塩といっても、色によってこんなに含まれている成分の比率が違うんだな。今日は持ち運び用にブラックとピンクの粒を混ぜてみた。色々と遊んでみよう。

1/8
青空はとてもうれしいけれど、先日のワークのような天気が必ずあって、そうであるからこそ、さらにそれを上回るEWがなされて…地球にとって、太陽系にとって、さらには宇宙にとって…と、どこまでもそこに本来でない、浄化すべきものがあるのなら、自浄力に任せられる時まではそれが続くのかな、となんとなく。そう思うと、まだまだすべきこともたくさんあって、身の引き締まる思いがする。でも力を入れるでも、目先のことに揺れ動くでもなく、ただ淡々と歩んでいくだけ。

生命としての自分と、人間の自分。最近それが別々に感じられる時があって(以前はそれすらも感じられなかった)、人間だけをやっているように思える時、こんな自分でいいのだろうか、と思ってしまう。そんな自分を「生命を生き、人間をやる」というムーセンテンスが、十数年経っても、出会った頃と変わらず、そばにいて支え続けてくれている。生命がメインだってこと、忘れるな~、自分。

1/5
今日で3日続いた、雲一つない青空。毎日普通に太陽の下を歩き、毎日普通に過ぎていく。
いろんなところでLEDによって傷ついた木々の写真を撮ったけれど、そのうちの何本もが力尽きて消えてしまった。まだ頑張っている木々も、どれも傷ついていて、それでも受容してくれている。地球の生命たちみんな、受容してくれているけれど、それもいつかきっと、かつての元気な地球の姿を取り戻せると知っているから。特に何ができるわけでもないけれど、受容してくれている生命たちの切なる思いに応えたい。そのために今ここにいるのだと、歩きながらふと思った。

1/3
今日は雲一つない青空。太陽がまぶしくて、シャツ1枚で散歩に出かける。こんな1月って、これまでにない。
水素1から始まって、カリウムだったり、アルゴンだったり…ワークの度にその反応から、私の身体にはどれだけの地球にはなかった歪な物質が入り込んでいるのだろう、というより、ほぼそれらでできているのではというぐらいだけれど、こんにゃく(石灰石)に加えて、岩塩を取り始めてから、少しずつ身体の中から変わっていく感じがして、細胞がどんどん入れ替わっていってくれているのかな、と…。そうだったらうれしいな。
岩塩って、味はしっかりしているのに、たくさん摂りすぎたかな、と思っても、不思議なことに喉は乾かない。外食の時に、ちょっと醤油を使っただけで、あとでけっこう喉が渇いたりするけど、それは海からの塩を身体から早く排泄するための反応だったりするのかも(添加物のせいもありそう)。岩塩を摂り始めてから、唇の裏側(上下とも)が、なんとなく腫れているような、しびれているような感覚があって、実際にはそんなことないんだけど、口の中ってやっぱり海からの塩をたくさん取り入れてきた場所だから、敏感に反応しているのかもしれないなと思う。
たくさんありすぎて、どれも大事なEWと、毎日の全粒穀物食、プラス石灰石と岩塩。こんなに心強いサポートがある今だからこそ、そのことだけに頼らず、何度も伝えてもらった「どんな自分がそこにいるか」を忘れずに歩んでいたい。

1/2
先日のワークで、太陽のまぶしい光に温められた海の中で、海と一体となって漂うような、そんな感覚があった。その時ペアになった仲間も同じようなことを言っていて、かつて、本当にそんな体験をしていたのではないかなと思った。その時の海は太陽の光をそのままどこまでも通す、透明で、明るくて、まぶしくて、温かくて…とてもとても心地いい海。ずっとその中で海そのものとして漂っていたいような…。地球の海って、本当はどの海もそんななんじゃないかなって、ワークの時のリアルな感覚を思い出す。

1/2
今日出かけた先で、おばあさんが広い通りでエサを撒いていて、たくさんのハトが集まっていたのだけど、そこに3羽のカラスが紛れていた。そのうちの1羽と目が合って、お互いじ~っと見つめあった。そのカラスは目が離せないといった感じで、顔はじっと私を見つめたまま、身体だけ、どんどん後ろ向きになっていって、ちょっとおかしな動きをしていた。まだ目を背けられるところまではいかないけど、注目はされたよう。子供の頃に体験した、カラスとヘビそれぞれが関わるある強烈な記憶があって、それはいまだに、ふとした時に出てきて自分の心を固めてしまうような感じがあるのだけど、それらも癒される今にいるから、楽しみながら歩いていこう。そのうち、みんなが歩くとカラスやヘビが逃げ出す、って時が来るような…。

1/1
確かに、地球と太陽の大きさ、そしてその距離から言っても、赤道付近と、北極(南極)の太陽からの距離なんて、ほぼ違いがないと言っていいと思うのに、なんであれだけの温度差があるのだろう。まして、日本なんて小さな島の北と南でそんなに温度差があるのも、考えてみれば不思議なこと。それをあたり前のこととして、ずっと受け入れさせられてきたけれど、そんな嘘の現実が修正される始まりの時を迎えているんだな。氷で覆われた北極海。その海が本来になったら、北極はどんな姿を見せてくれるのだろう。



12/31
いつも通り散歩をしていて、今年は年末に大掃除をしているとか、お正月の準備をしている空気があまりないなと感じる。うちのすぐ近所では、毎年年末になると、すごいな~というぐらい、気合を入れて掃除をしている家があって、年末年始のいろいろがなくなってしまった我が家とは(家のきれいさが)対照的だったんだけど、今年はそれも見かけなかった。近所の慌ただしい感じがなくなって、なんだかホッとする。
今日は歩いていると、なぜか上り坂で、ゆっくりとジョギングし始めていて、身体が勝手に前に行く感じがした。その後、多分、生まれて初めて意識したと思うけど、楽に歩けていると気が付いた。長年の股関節のズレに始まって、身体のあちこちの痛みや歪みなどで、いつも変な歩き方をしているのを感じていて、ちゃんと歩こうとすると、どこかに力が入ってしまって、必要以上に疲れたり、痛みが出たり、無理な歩き方をしていた感じがしていたけど、今日はどこにも力が入ってなくて、それでいて、ちゃんとムリなく歩いている感じがして、ちょっとしたことだけど、こんなところでも少しずつ健康的になってきているのかなと感じられてうれしい。

12/30
今日も太陽が元気。出先で歩いていると、ちょっと風が冷たいけど、それが気持ちよくて、悩んで手に持ったパーカーは、結局荷物になってしまった。外の駐車場に停めた車は、買い物から戻ると、シートの背中部分に太陽の光が当たっていて、乗ったら背中がずっとポカポカしていた。
先日のワーク中から、なんだかうれしさが続いていて、みんなの顔を見ているだけでうれしくて、それが家に帰ってから今もずっと続いている。そうはさせないという意思(出来事)も時折やってくるけど、もうそんなの気にならない。目の前にはみんなと共に歩む道(無有日記)がいつも見えているから。
外食が残念で、でも持っていた岩塩に助けられた。岩塩を食べると、その後すぐに身体がポカポカしてくる。寒いと感じたら、少し舐めてみるといいかも。(お水に入れても)

12/29
鉄やカルシウムなどはその働きの主なものは知っているけど、その他の微量元素については詳しくなく、でもワークで反応の強かった、岩塩の中のある成分は、自分のこれまでの身体の状態を思うと、なるほど納得だなあと思うものだった。(本来の役割を果たせていなかった。)生命食を続ける中で、これまでも玄米などから摂ってきたけど、「復活」のEWが進んできた中、このタイミングでの岩塩だからこそ、その成分が身体の中で最大限に活かされるのだろうなと思う。昔、「食の風景」で、「塩はほんの少~し」って書いてあるのが、とても印象的だったんだけど、あれば私達が海からの塩を取り過ぎないようにしてくれていたんだなあと今にして思う。「アジシオ」なんかの危険な塩(アミノ酸入り)はもちろんのこと、食卓塩(精製塩)、海からの塩は極力取らないほうがいいけれど、岩塩は身体が欲するまま、遊び心で好きなだけ摂ればいいんじゃないかな。(もちろん、極端なのはNGだと思うけど)
昨日は仲間たちと食事の時、持っていた硫黄の香りのするヒマラヤのブラックソルト(パウダー状)をみんなでサラダや白米にこっそりかけたら、おいしいし、身体が急に熱くなってきた。これからはどこにでもMY岩塩を持参しようっと。

12/29
ちょっと不思議な話。電車で座っていると、隣に座る人が次々入れ替わることがとても増え、隣だけがなぜか誰も座らず空いていることも増えている。そんな中、昨日はやっぱり隣が次々変わった後、若い男の人が座ってきたら、ものすごくタバコ臭いし、座り方も迷惑で、うわ~、どうしよう、席を立とうかな、と思いつつ左手を立てていたら…なんと、タバコ臭さが急に減って、あまり臭わなくなった。そして次の駅で降りていった。岩塩たくさん摂ったし、カバンにも入っていたし…岩塩には消臭効果もあるのかも…?

12/27
一昨年の夏頃だったと思うのだけど、その頃からゴミ出しや散歩などで外に出ると、いつも呼吸がしにくい感じがして、深呼吸してみるものの、空気が入ってこない感じが続いていた。元々喉あたりは弱いので、気管支か、肺が弱っているのかな、と思っていたのだけど、ある時、散歩で町内を出てしばらくすると、その息苦しさがなくなっていることに気づいた。それから意識してみると、いつもそうで、その時は、ただこの町の重たさのせいなんだなと思っていたけれど、そこにある空気の中にある原子レベルでの異物によるものなんだと、「復活」の世界が教えてくれた。ワークの時、そういう空気を吸わせないようにしてくれている場合(意思)もあるというようなお話があったけれど、もし、そういう意思が働いてくれていたのならうれしい。ひとつの事実も、見方によって全く違ってしまうんだな。いずれにしても、数年前までは、そんなことすら感じられずに、その中にいたことを思うと、この今がどれだけ大きな健康の原因であるかとあらためて思う。原子から始まって、クォークまで、ますますチンプンカンプンの世界だけど、知識がない分、ただそのまま、その世界で遊んでいよう。

12/26
ひとりひとり環境も役割も違うから、そのプロセスもひとりひとり違う。だからこそ、その時々でお互いに支え合い、見守りあいながら歩んできて、これからもきっとそう。出てくるものに思考が働いたり、感情が出てきたり、誰かのそれに対して反応したり、違和感を感じても、それらはすべて本来なかった異物であって、その人そのものではないから、どんな時も深い信頼感の中、その時々で感じるままいられたらいい。なんだかどんどん思考が働かなくなって、考えなければいけない時も、考えるのがめんどくさくて、どんどん(もともとの)アホになっていく。ただ今は、生命を生きる仲間ひとりひとりの存在にありがとうーって、そんな気持ち。

12/25
久しぶりにドライブに行きたくなって、海と山に会いに行ってきた。船と並走したり、海岸を眺めたり。以前はものすごい数のカモメやウミネコがいたけれど、ここ数年はその数がすっかり少なくなってしまっていて寂しい。海も本来から遠く離れてしまっているのだろうな。
でも、帰り道、夕日に照らされる山々や街並みを見ていたら、「地球ってきれいだな」って浮かんで、確かに今の地球は本来からかけ離れてしまっているのだろうけれど、多くの傷を負っていても、やっぱり地球はきれいな星で、私たちの住む大切な場所。地球の元気は、地球に住む動植物たちや私たちの元気。そして太陽系の天体すべての元気。そこへのプロセスひとつひとつを楽しんでいこう。

12/22
たくさんアップされた無有日記を読んで、夜中に眠ったのに、今朝はなんだか早くに目が覚めて、完成した「復活(14)」のページを開いたら、暖房もつけてないのに、それだけで身体の内側が熱くなって汗が出てきた。空は曇っているけど、太陽の姿が見えなくても、その光はちゃんと届いている気がする。

12/21
久しぶりに行ったお店で、買ったことのない岩塩が売っていたので買ってみた。イタリアのシチリア産。これまで何度か買っていたのはヒマラヤのピンクソルト。岩塩はまろやかで、とんがったしょっぱさを感じない。今日はサラダに亜麻仁油とあわせてかけてみた。シンプルで、おいしい。
ところで岩塩って、国産のものを見たことがないけど、国産の岩塩ってあるのだろうか?売っている国産の塩はどれも海水からのもののような気がするけど…。岩塩の世界に触れられるこれからが楽しみ。

12/20
すべてのものには意思があって、生命本来を生きる意思と、それを嫌い、壊そうとする意思が、目に見えない細かな物質として、ぶつかったり、複雑に絡み合ったりしながら、いろんな現実をつくっているのだなと思うと、自分の身体細胞(の中)や、微生物たち、身の回りにあるたくさんのもの(人)たちへの意識の向け方が変わってくるよう。目に見える形ではなく、その意思がどこと繋がっているか。自分自身も、自分が選ぶもの(人、もの、様々な選択)も、太陽や地球が喜ぶそれでありたいなと思う。

12/17
ムーさんが連れて行ってくれる、「復活」のその先の世界は、ますます思考が働かなくなる(考えても分からない)けれど、今の世の中が嘘ばかりだということは、よりはっきりと感じられるよう。情報世界、そして、ずっと前から言われてきた常識(知識)も嘘で、多くの人達にとって大事にされることも、無有日記と共に歩む人たちや、外の世界にいて共に地球を守っている人たちにとっては当てはまらないんじゃないかなと思う。メディアなどで健康にいいと言われると、何かの食品(食材)がスーパーから消えたり、逆に不安をあおるような、〇〇は身体によくない、などの情報なども、たとえそれがほとんどの人達にとってそうであったとしても、原子レベルで体内の構造が違えば、そこには決定的な違いがあるから、その通りにはならないんじゃないかと…。それらの情報に振り回されることなく、自分の感覚、体験的知識を大事にしていけばいいだけだと思う。だって、これからますます健康でいるのが普通の世界に、不安をベースにした情報世界は必要ない(近寄れない)と思うから。全粒穀物食と太陽の光に応援されて、どんどん元気になっていこう。いらないものを身体からどんどん追い出して。

12/17
ワークの帰りの電車で、最後に教わった処方箋をやっていたら、隣に座る人が次々変わって面白かった。隣に座ると、次の駅に着くまでに、あっという間にみんな爆睡して、1人目の人は、何度もすごい勢いでもたれかかってきた後、思い切り頭を後ろにぶつけてゴン!って大きな音がして目が覚め、次の駅で降り、また次に隣に座った人も同じようにすぐに寝てしまって、またゴン!って大きな音が…連続して3人(3人目は音はしなかったけど)そんなことがあって、笑いをこらえるのが大変だった。結局、みんなすぐに降りてしまうか、席を離れてしまうかで、向かい側の人もみんな眠ってしまって、そのスピードがこれまでよりずっと早くて、何かが違う感じ。

12/16
みんな、って今、縁のあるみんなだけじゃなく、目に見えない、知らないみんなも含めて、みんなで協力してここまできたんだなあって、あらためて思うと、なんだかうれしさがじんわり。

12/14
晴れたり曇ったり、めまぐるしい空模様の中、外を歩くと、空一面に雲がたくさん浮かんでいて、その多くに黒い雲が貼りつくようにくっついていた。形も大きさも、色の濃さも様々で、まるでみんなとそこに入り込んでいる異物のように思えた。白い雲と貼りつく黒い雲。でもその隙間に青空が見えて、太陽もしっかりと輝いていた。なんだかせめぎあいのような感じの空だったけど、雲の隙間から見える太陽の姿だけで充分元気になれる。風は冷たくて、顔が痛いくらい。でも、どんどん歩いているうちに、雲も流れてどんどん形も変わっていき、青空の見える範囲も広がっていった。そんなに歩かなかったけど、家に帰ると身体が熱くて、自分の中の黒い雲も振り切れた気がした。
誰かの姿からも、自分のことでも、もうそこにいなくていいんじゃないかなと思うことが度々あって、何も変わっていないようでも、でもどこかが確かに変わっていると感じるから、その感覚を大切にしていればいいのだと思う。もちろん、いつもそのままありのまま、等身大の自分で。

12/12
コツコツやるのがあまり得意ではなくて、そのうちやらなければ…と思いつつ、やりたくなくて先延ばしにしていた、かなり大変になると予想していた作業。ふと、今日やろうという気になって、気合いを入れて、さあ、と始めたら、、あれっ?と驚くくらいの簡単なやり方が見つかって、何日もかかるだろうと思っていたことが、ほんの数分で終わってしまった。なんだか拍子抜け。気の重さも、思い込みも、気合いも、全部いらないものだった。こんなときいつも思う、頭での「やらなきゃ」と、ふとしたタイミングの訪れに案内されるように動いてみることの違い。ほんの小さなことだけど、また少しいらないものが外れた気がする。

12/11
このところ、「自分の中にすべてある」と度々浮かんでくる。すべてというのが何かは具体的にはよくわからないけれど、自分が求めていた何かというより、みんなが自分の中にいて、自分もみんなの中にいる、そんな感覚に近いような。誰かの感情も、自分の感情も、誰かの想い、自分の想いもすべて境がなく、ひとつとなって自分の中にあるような、そんな感じなのかな。

12/11
小豆の新豆が出回っていて、久しぶりにあんこを手作りしようかな、と思っていたら、小豆麹というのがあるのをたまたま知って、最近何度か作っています。玄米と麹で甘酒を作るように、小豆を麹で発酵させるので、お砂糖は一切使わず、自然な甘さがあります。玄米餅や全粒粉のパンケーキと合わせたり、そのまま食べても。ちょっと甘いものが食べたいな、っていう時に、ちょうどいいおやつになります。(作り方をレシピにアップしました)

12/7
言葉って、本来は想いを表現するために生まれたもの(あるもの)だと思うから、今の世の中にある思考から始まる、人の不安をあおるような情報世界や、正しい、間違っている(いい、悪い)の二者択一的な自己主張の強い言葉(意見)は、すべて本来はないはずのもので、本来ではないそれらに触れた時、自分の中にある歪な物質や、その原因となる存在の意思が働いて、不安になり、余計な思考が働き、思わぬ方向へと進んでしまうことがあるのかなと思う。それを思考で判断するのではなく、触れた時の自分のなんとなく…の感覚を大切にすることがやっぱりとても大事で、そうすれば形としてはどうであれ、エネルギー的には「間違い」はないんじゃないかなって。間違っても失敗しても、本来の自分は何が本当の「正しさ」かを知っていると思うから。ただ、「自分は正しい」というところから始まってしまうと、視野が狭くなり、偏ったものの見方しかできなくなる気がする。本当の謙虚にはまだまだ程遠いかもしれないけど、自分のことも客観的に見る、謙虚な気持ちは忘れずにいたい。

12/3
フォトブックを渡してから、しばらく行かなかったお店に行くと、店員さんが覚えていてくれたようで、お子さんのものや、身内の方が引っ越しされた時の照明器具などを、中古だけど全部蛍光灯で揃えることができたと、喜んで教えてくださった。「みんなLEDがいいんですかね?たくさん(蛍光灯が)ありましたよ」と。買い換えられた古い蛍光灯がリサイクルショップやフリーマーケットで売られているようで、中古もいろいろあるだろうけれど、必要な人のところに蛍光灯が届いてよかったなと思う。フォトブックをきっかけに、知らないところで少しずつでもLEDの悪影響が伝わっているのなら、これからも淡々と行こう。自分なりの役割を楽しみながら。

12/1

さすがにムリだと少し前まで思っていた、12月の半袖。朝は少し空気が冷たいと思ったけれど、太陽の光が当たるとポカポカして、一応持って行ったカーディガンは出番なし。コートやセーターばかり売っているお店の中での半袖は、さすがに人の目線が気になったけど、外を歩いていると中から熱くなり、汗が出てくる。外ではあったかくても、いつも家の中はやっぱりちょっと寒くて、でも今日は、夜になっても半袖のまま、気づけば暖房なしの部屋で過ごしていて、やっぱり中から熱い。例年は早ければ10月末になると灯油を買い始めるこの辺りだけど、今年はまだ買う気になれず、少しのエアコンと、補助的な電気ヒーターで充分なのも、越してきてから初めてのこと。いつも、帰りに東京駅から電車に乗ると、決まって途中のある駅から急に温度が下がるのを感じていて、この辺りはなんでこんなに寒いのかよく分からなかったけれど、単に地形の問題だけではないのかな…と。自分の中の冷え(の原因)と土地の冷え。太陽の元気によって、その両方が少しずつ変わってきているのを確かに感じている。



11/30
いつ頃だっただろう、吸うと声が変わるということで面白いと、ヘリウムガスが一時期流行っていたことがある。うちも家族が買ってきて、試しにやってみたことがあったけど、あれも歪なヘリウムだったのだろうか。そうであっても、そうでなかったとしても、地球や、生命本来を生きる人間にとって大切ないくつもの物質が、このような形で非生命的な存在に利用されていることは多いのだと思う。でも、その存在達に利用されている物質があるということは、それらの物質を通して(そこを入り口として)、歪な性質を持った物質や、存在へのEWが可能ということで、そのことを知るタイミングにいる今があるのだな…と。どんなに厳しいと思えるようなことも、すべて原因に変えるME。安心に包まれて、どんどん力が抜けていく。

11/29
カード払いで買い物をするときや手続きをするとき、最近は様々な場所でタブレットや専用の端末を使って、そこにサインをすることが増えていると感じる。中でも驚いたのが、サインする時「指でサインお願いします」と言われたこと。思わず、「えっ、指で?!」と聞き返してしまったけれど、タッチペンではダメで、指でないと反応しない端末もあるらしい。指で書いた字はガタガタ。普段の字とはまるで違うけれど、こんなので(本人確認)いいんだろうか…?と思いながら、仕方なくサインをしたことが2度ほどあったけど、やっぱり直接タッチパネルに指で字を書くということには抵抗があった。このBSで、その抵抗の理由、そして、そうすることの危険性、さらには触れたり、近くにあることを避けても、それでも入り込んでしまう負の原因の理由にも触れさせてもらい、電子機器(PCや携帯など)との関わり方、普段の生活の在り方や時間の過ごし方などもあらためて見つめ直す機会をいただいたよう。ただ、先日の携帯ショップでも、タブレットにサインする時、タッチペンが急に壊れて反応しなくなったり、これまでも反応しにくく、何度か手をかざして…ということはあったけれど、BSのなか日に、ついにトイレのセンサーが全く反応しなくて、しばらくトイレから出られなかった(ちょっと焦ったけど)ということがあったりして、これまで影響を受けっぱなしだった、非生命的な物質、そして電流、磁気を逆噴射的に跳ね返して、それらを壊してしまえるような、そんな時を迎え始めているのかと思うと、これからが楽しみ。

11/29
生命本来の意思(ひとつ)を、地球と同じように球体と捉えると、地表に当たる部分や、その近くで活発に活動する生命もあれば、外からは見えないけれど、静かに、でも力強く活動する核の部分もあって、目に見える表面の部分(動き)に意識が向きがちだけれど、(もちろんそれも大事だけれど)普段、あまり意識を向けられることのない核の部分がとても大事で、その核の部分での力強い存在の意思(エネルギー)によって、ひとつである生命本来の意思は活かされ、支えられ、刺激され、それぞれ自分の持ち場で活躍できるのかなという気がする。そこが元気をなくしたままだと全体も本当の意味で元気になれない、でもそこが元気になれば、自然と全体も元気に本来を生きられる、その核の部分を担ってくれている存在たちの負荷が少しでもなくなるよう、自身の病みを浄化し、自分の持ち場を担えることができたらうれしいと思う。

11/29
自覚する、しないに関わらず、身体に入り込んで奥深くに沈み込んでいるものが、旬の処方箋によって、あちこちから浮き上がってくる。痛みや気持ち悪さ、それらはもういつものこと、と慣れてしまったところもあるけれど、今回は数ヶ月前まで使っていた湿布を貼っていた箇所の皮膚にボロボロとした剥がれが出たり、細かいブツブツができてしまって痛痒く、それが今も続いている。もともと肌が弱くて、湿布も2日以上続けて貼るとかぶれてどうしようもなくなるので極力使わないようにしていたけれど、それでも我慢できない時には使ってしまっていた。使わなくなってしばらく経つけれど、その時の原因と共に化学物質も皮膚を通して染み込んでしまっていて、それが今回居場所を失くして出てきてくれたよう。反応としてはいろいろ過ぎて、でも、その分、手応えもある。自分のラクが、そのまま地球がラクになることに繋がっているのなら、どんどんラクになっていこう。その先に本当にできる仕事が待っているのかもしれない。

11/24
先月のワークで、要らない分子(原子)を外す、という体験をさせてもらい、これまで想像もしなかった、自分の中に入り込んでしまっていた分子(原子)が大きく影響していたことを体感した。同時に、自分の身体を構成している炭素や水素、窒素など、そんな、普段全く意識することもなく、感覚として分かることもない世界での違いが、今の世の中の現実そのままなのだと、「復活」の宇宙規模のテーマの中の、分子・原子レベルの小さな小さな世界に、なぜか納得する。見た目や言動とは違うところで伝わってくるもの。その伝わるものの違いをなんとなくの感覚で感じていただけだけど、実際に、肉眼で見ることはできない小さな世界には確かな違いがあったこと。そして自分の中にも入り込んでしまっているそれらを外すことができる今。あらためて、ここまで来たんだな…と。今という時にみんなと共にいられることがうれしい。

11/23
偶然を装って、いろいろな形でジャマが入ることがある。そんな時、余計な思考を働かせると、感情も動き、物事が複雑になってしまったり、スムーズに進まなくなる。思考と感情はセットになって、思考が働けば感情が動き、感情が動けばさらに思考は忙しくなる。だから、余計なことは考えず、思ったまま、言葉にしたり、行動に移す。シンプルが1番。

11/22
必要な手続きがあって入った携帯ショップ。最近改装されて、ピカピカLEDがますます激しくなり、さらにはピカピカスマホやディスプレイだらけで、できることなら近寄りたくない場所。さっさと終わらせたくて朝一で行ったのだけど、受付をしてくれた店員さんが話を始めるとすぐに咳が止まらなくなり、飴をなめて何とかやり過ごしたら、その後すぐに今度は鼻水が止まらなくなって…。その人から見たら完全にひどいカゼをひいた人みたいに見えたと思う。これまで、反対に周りの人の咳が止まらなくなって…ということはあったけれど、今日は私の方がひどい反応。周りを見ると、その店員さんの他にもなかなかだなあと思う人たちがいて、一見普通の場所で普通に手続きをしているだけだけど、実は結構なバトルが起きているように思えた。電話をしている店員さんの声や表情から伝わってくるもの、忙しく動いている店員さんの様子など、その姿かたちの奥に見え隠れするものが、ここへ来てよりわかりやすくなっている気がして、身体の反応はあっても、どこか余裕で観察できているよう。
それにしても、以前ならそれほど時間がかからなかった手続きも、今はいろいろなトラブルを避けるためにと、必要以上に説明に時間をかけたり、それ以上に、いろいろなシステムを作って複雑にし過ぎているなあと思うことが多い。シンプルにするとみんなに分かってしまうから、複雑にして、表面上お得に見せて、裏でしっかりと利益を得ようとしていることが手に取るようにわかる。損得、というところに捉われないでいると、そのシステムに巻き込まれずに、自分にとって必要最低限のものだけを手にすることができる。それでも1時間もかかるって…。この世的な価値観って本当に要らないものばかり。

11/19
LEDで具合が悪くなる、と言うと、「大変ですね…」と同情される感じだったのが、LEDフォトブックを渡して写真を見せながらいろいろ話をすると、一つ一つの写真に目を丸くして「え~!知らなかった…!」とかなりショックな様子。いろんな人にフォトブックを渡したけれど、それまでは仕事上の間柄(店員と客)を意識したやり取りだったのが、一気にその人の素の部分が見えて距離が縮まる、というようなことが何度となくあって、そんな時は人間同士として、何かが伝わった感じがして、とてもうれしい。LEDの影響は他人事ではなく、誰にとっても関わりがあり、そして責任のあること。この日本に、そして地球に住んでいるのだから。

11/17
本当に11月なのだろうか、と思うほど、ずっと暖かな毎日。太陽の光がある時間帯だけでなく、夜に出かけても、一応持っていった上着の出番はなくて、少し歩くと汗ばんでしまう。昨日の夜は、ストーブをつけていたわけでもないのに、夜中に暑くってなかなか寝付けず、掛け布団をはいでしまうほど。薄い毛布だけ掛けて寝て、明け方に少し肌寒くて布団を掛けたけど、やっぱり暑くてまた薄い毛布だけに。なんだか自分が発熱しているみたいで、冬にはものすごく冷えるこの部屋ではあり得なかったこと。生命食を始めてから、かつてのひどい冷えがすっかりなくなったけれど、今年はこれまでとは何かが全然違う気がする。こんにゃくをたくさん食べ始めたのも大きいのかもしれないけれど、やっぱり太陽の光の応援が大きいのか、自分の中にもまるで小さな太陽があるみたい。薄着でいられると動きやすいし、動くとさらに身体が熱くなって、重たい上着とは縁遠くなる。これまでの黒ずくめの「冬服」の常識を、みんなのカラフルな薄着が変えていくのかな。

11/17
不安というものがなかったら、世の中からものすごくたくさんのもの(やシステム、仕事)が消えてなくなるんだなと、ふと思う。本来ない不安(その他、嫉妬や怒り、寂しさなどの否定感情)という感情を利用し、本当ならいらないものを、念のために、〇〇のために…と使わせるものが、どれだけあるだろう。それらの感情を利用して利益を得るような世の中の仕組み。その結果に「対応する」という形をとっていても、それらを本当になくそうと思っている人はほとんどいない。なくなったらその人達は利益を得られなくて困るから。現実はそうやってずっと変わらない。だから、結果を何とかするのではなく、ただ原因でいる。ムーさんがずっと言ってくれていたことが、天体規模の視点を持ち得たことで、これまでより広いところからよく見えるようになった気がする。歪な大多数から離れ、本来を生き始める人が、少しでも増えてくれるような原因を生きていたい。

11/13
先日、夏日になるかもという日に、電車の中で暑くて、やっぱり半袖にすればよかったと、薄手のシャツの袖をまくりながら、ふと目の前を見ると、私と同年代ぐらいの母娘が、揃って首にファーのついた重たそうなコートを、ボタンも全部留めて着て座っていてびっくりした。窓から射し込む暑いほどの太陽の光がその2人にずっと当たっているのに…。その日は、他にも黒のレザージャケットを着た人を何人も見かけて、太陽の光には似合わなくて、とても違和感を感じた。こんなに暑いのによく平気だなあって思ったけれど、そうか、太陽が元気になると、寒くなる人たちもいるんだなって、なんだか納得。(好む服装で分かる気がする)これからますます街で見かける人々の服装も、薄着の人と、厚着の人と、極端に分かれるのかなと思う。

11/13
自分の中をかき混ぜて、いらないものを浮き上がらせてもらったような、今回のワーク。最後の最後で強烈な反応と共に、さらにいらないものが出てきたようで、その余韻はしばらく続いたけれど、ふと気づくと、いい意味で力が抜けた気がする。周りの状況が特に変わったわけではないけれど、なんとかしなきゃもなく、ただ、今を受け入れ、心穏やかに、普通に過ごしている。今日の風は少し冷たかったけど、それでも薄手の長袖1枚で外を歩いているというのは、都内より寒いこの辺りでの、これまでの11月半ばではなかったんじゃないかと思う。太陽が元気になってきているとともに、自分の中も少しずつ元気になってきているのかも。

11/8
今朝起きたら、左足裏の歩くと力がかかる箇所が痛くて、午前中車で出かけた時は、これは困ったなというぐらい痛みが出ていた。でも、午後になって、いつものように散歩に行くと、歩いているうちにだんだんと痛みが軽くなり、途中からはほとんど痛みが気にならなくなっていた。太陽の光を浴びながら、「日焼けによるシミ、そばかす」ってよく言うけれど、それは食べるものが大きく影響していたり、化学物質を使った化粧品や、自分の否定感情など、他の要因が大きくて、案外太陽の光を浴びているうちに、シミさえ消えちゃうんじゃないかな、って思ったりした。それぐらい、太陽の光を浴びていると、いつも心身が楽になって、元気が出てくる。足が痛いとか、どこか調子が悪いと、家でゆっくり休むのがこれまでの普通かもしれないけど、そんなことも忘れて普通に歩きだすと、かえって調子がよくなったり、痛みが和らいだりという経験を何度もしている。そして、天気予報が曇りや雨でも、外に出ると、太陽が顔を見せてくれることが多くて、一般に言われること(常識)だったり、天気予報だったりも、太陽の元気の前ではあてにならないな、と思っている。

11/7
久しぶりに歩いた、小中学生の通学路。懐かしい風景の中、大きく違っていたのはLEDの防犯灯がいくつもついていたこと。子供たちが学校に通っていた頃、ある家が、塀にびっしりとついた緑色の苔をとても大事にしていて、そこを通る子供たちにいたずらで傷つけられると怒っていたそうだけれど、その自慢の苔も黄色や茶色に変色していて、ボロボロになっていた。(なぜそんなに苔が大事なのかよくわからなかったけど)当時は何年もきれいな緑色だった。その家の前の道はとても狭く、曲がりくねっていて、車のライトがじっくり当たる場所。少し先の道では、アスファルトがボロボロに割れ、割れた真ん中の部分がずっと長くへこんでいて、自転車だと転びそう。この数年でこの辺りの風景も大きく変わってしまったよう。ちょうど下校時間で、中学生の自転車がLEDライトを光らせて、たくさん通る。さらに何台もの車がやはりLEDライトをつけて通り過ぎる。畑のあった場所は、太陽光パネルが敷き詰められていた。年月による変化ってもちろんあるけれど、自然な流れとは違って、LEDによる変化は地球の悲しみしかもたらさない、不自然な変化。どんよりした空や、傷ついた木々を見ながら、地球に向けてか太陽に向けてか、自分でも分からないけど、思わず、私たち(みんな)がついてるよ、なんて強気なことを思ってしまった。月は見えなかったけど、月が回ることを思いながら歩いていると、遠くの空が明るくなってきて、きれいな夕焼けを見せてくれた。いくら隠されても、太陽は負けてないなって、うれしくなった帰り道。

11/4
まだMEに出会う前、生きにくさを感じていた頃、周りと考え方、感じ方、何から何まで違うように思えて、でも、この国のどこかに同じような想いの人達がきっといる、ってずっと思って過ごしていた。そして、同じ想いの仲間たちと共に歩んでいられる今。まだまだいらないものだらけだけれど、地球が喜ぶ自分を生きていきたい。

11/4
午後から久しぶりの雨。庭から見える塀の上の部分に雨が染み込んで、(濡れたせいで)色が変わっている。家の塀はまだ黒ずみはほとんど見られないけれど、それがちょうどLEDの影響でよく見られる塀の黒ずみと全く同じ形で、あらためてLEDに汚染された雨水の影響で塀が黒ずんでいることを見せられたよう。昨日は散歩していて、まさにさっき埋められたという感じで、道路の穴に、真新しいアスファルトが黒く光っていた。もうこの場所は、何度穴が開き、埋められただろう。その穴も、どんどん深くなっているような気がする。出かけた先でも、至るところで壁などにコンクリートの溶け出しが見られ、倒れた桜の木々の向かい側にも別の倒れた木々が…。探さなくても、どこでも目に入ってくるLEDによる悲しい風景。LED化を進めている人たち、LEDを使い続ける人たちは、いつになったらこの現実と向き合うのだろう。



10/31
このところはもう10月の終わりとは思えないほど、太陽の光が力強くて、散歩するときは半袖でちょうどいいぐらいの日が続いてて、時々今は何月だっけ?と思うほど。先日は360度見渡しても、どこにも雲がない青空だった。今日は太陽の光が優しくて、その優しさをじんわりと感じながら歩いた。毎日できる限り太陽が出ている時間に外を歩いているけれど、それがとても大きな回復と調整の時間になっている気がする。

10/29
痛みや、自分自身の色々なことについては、結構めげずにいられるけれど、身近な人のことになると、不安がまだまだ顔を出したり、自分の弱さ、脆さを感じてしまう。でも、それは人間の部分のことで、生命というところにいれば、それらをもっと広いところで見ている自分も感じられる。「生命を生き、人間をやる」という、ずっと前からのムーセンテンスが、今もずっと支えてくれているのを感じる。いくら気持ちが沈んでも、不安になることがあっても、そんなことはお構いなしに流れるものはあって、縁ある方たちの想いと、仲間の想いが繋がるお手伝いもちょこっとだけさせてもらったりして、そういう想いを感じると、個人的なところにはいられないなと思う。
否定感情たっぷりの人のエネルギーに触れると、以前より身体に来るものも強烈だったりするけれど、回復も早くなっている気がする。少しずつだけれど、何かが変わってきているのかな。

10/24
少し前、テレビの天気予報で、皇居の木々を映していて、「塩害でもなく、紅葉でもないのに、ところどころ茶色くなってしまっている」ということを言っていた。「原因は分からない」とのことだったけれど、本当だろうか、と思ってしまった。テレビでLEDの影響について報道されることはないけれど、本当は多くの報道に携わる人達がLEDの影響を知っているのではと思う。地震や台風のニュースでも、それに伴って、これまでには起きなかった大きな山崩れや大規模な停電、列車のトラブルetc.…が報道されている。もし、知らなかったとしても、情報を発信する側なら、その原因は?と疑問に思うはずだし、そのことをテーマに番組が作られてもいいぐらいのはず。でも、その原因がLEDとなると、決してそれが表に出ることはなく、「原因は分からない」か、他の原因にすり替えられてしまう。なんとしてでもLEDが原因であることは知られてはいけない、この国の心無い人達。たとえこの国の木々が消えてなくなり、あらゆるものが脆く、崩れ(壊れ)ていっても、その姿勢が変わることはないのだろうな。

10/23
不安や心配、緊張などがある時、身体のどこかが痛い時、無意識に身体に力が入っていて、それがまた別のところの痛みを引き起こしたり、動きにくさの原因になったりしているような気がして、そんな時は、できるだけこんにゃくのように(?)グニャグニャと、身体の力を抜いて、外を歩いてみる。何も考えずに力を抜いて歩くことだけをしていると、いろんなことが気にならなくなってくる。歩きながら、日記に書くのもちょっと…というような、天体たちのおかしな様子を想像すると、一人でくだらないな~と笑ってしまう。太陽も笑ってくれたかな。
人間、とか、今回の人生、という狭いところで見てしまうと、いろいろ気になることがあるけれど、現在の環境も、状況も、すべて必要性だということを思えば、そのひとつひとつが動くことよりもっと大事なことがあると思える。「人間の(になる)前」に意識を向けたり、人間になったその原因の部分を想うと、いろんなことすべてが必要性で、ジャマをされることさえ、(浄化するための)予定通り。だから抵抗しない。大きな大きな仕事が終わったら、みんなでハワイに行くんだから。

10/18
今日、買い物に行く途中で、ちょうど2年前に枯れた松の写真を撮った道路の反対側にある、十月桜という、この時期に花が咲く桜の木が2本倒れているのを見かけた。それまで、この時期に咲く桜があるというのを知らなくて、近くの農家さんに聞いたら、いつもこの時期に咲くんだよって言われて、きれいだなあって思って見ていたのだけど、何本も並んで植えられている桜の木々は、今年はどの木の花もとても少なく、小さくなっていて、1本は割と大きな桜、もう1本はちょっと小さな桜だったけど、倒れた木の根は途中から腐ったような感じで、先のほうがなくなっていた。この道路は交通量がとても多くて、写真を撮った当時も、ひっきりなしに通る猛スピードの車にヒヤヒヤだった。2年の間に、LEDのヘッドライトに当たり続け、LED雨に晒され、土壌もおかしくなり、根から腐ってしまったよう。何度か撮っている近くの桜も、倒れたり切られたりしていくつもなくなってしまっている。このままでは本当に桜が姿を消すのも時間の問題かもしれない。

10/18
子供の頃から、ぼ~っと空を見上げて、ふわふわと流れながら形を変えていく雲を、「あれは魚みたい、これは怪獣みたい」って、何かの形に似てるものを見つけて遊んだりしていて、今も散歩のときに時々やってしまう。でも、余計な思考を使わないでいられるのかも。今日もずっと曇っていたけど、夕方散歩していると、太陽が顔を見せてくれて、思わず立ち止まって、両手を広げて全身に太陽の光をいっぱい浴びた。ものすごく温かな光に包まれて、一気に元気になる。夕方なのにめちゃくちゃまぶしくて、雲もほわほわ流れてて、月も、やっぱりうさぎ柄だったけど、半分ちょっとの姿を見せてくれて。
太陽や月に話しかけて、流れる雲を見て…上ばっかり見て、傍から見たら変な人だけど、何にも考えずにいられる時間。

10/16
スーパーにいろいろなこんにゃくが売っているけど、凝固剤の種類(水酸化カルシウムとあれば、普通は石灰のよう)よりも、いつも「生芋こんにゃく」と書いてあるものを選んで買っています。(といっても、普通にスーパーで売られているものは、生芋をメインに、こんにゃく粉も混ぜてあるものが多いと思うけれど)生芋と書いてないものは、こんにゃく粉だけで作られていて、食べると味や歯ごたえを含め、何か足りない感じで、違いが感じられます。以前行っていた、産直のお店では、季節限定で、生芋100%の手作りこんにゃくを売っていて、よく買っていたのだけど、とてもおいしかった。サラダこんにゃくと言って、茹でたりせず、そのままサラダに入れて食べられるものは手軽なので、こんにゃく粉のものでも買ったりしているけど、やっぱりつい生芋の方を多く食べています。いろんな食べ方で食べられるけど、最近は少量のごま油で炒めて、甘辛に味付けして、鰹節をからめたものがおいしいなあと思います。

10/15
MEに縁して16年目。ものすごい密度の濃い歩みの中、今のHPを作り始めたのがちょうど3年前の今。あらためて過去の日記を見てみると、3年前(2015年)は「連繋の意思」がテーマで、その頃も土器や蛇のことと共に、天体のことにも触れてもらっていたんだなあって。そのあとすぐ「LED感染」が始まって、LED対策をしながら、いろんなところにLEDの影響について伝える日々。その後2016年春にLEDの影響の写真を撮り始めて、2016~2017年秋までは、「(~の写真)アップしました」ばかり。(ちょっとおかしい)振り返ると、とても大きな動きがあったこの3年間。
昨日のワークで、何かが変わったというより、いる場所が変わったような気がして、いろいろすっきりさせたくなって、過去の日記を消して、(一部セレクトして「つぶやき」に移しました)想いを新たに、またここから。
未来はもう決まっていて、過去にも自由に行き来しながら、未来への道を辿るように歩んでいる今。とにかく思考を使わず、アホでマヌケな普段の自分のままで、この歩みを楽しもう。


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