日記

5/25
ずっと、朝起きると小鳥たちのおしゃべりがよく聞こえているけれど、今朝は特に、いったいどれぐらいの種類の小鳥たちが集まっているんだろうというぐらい、いろんな声が聞こえてきた。うちの庭や電柱、家の前の木の他に、近くの雑木林からも、エコーがかかった小鳥の声が聞こえてきて、もうサラウンド!贅沢な朝だなあ。
散歩の途中、なんと黒落花生(私も初めて見る)が100円野菜で売っていたので、3袋買って、早速「ブラックピーナッツペースト」を作ってみた。炒っていると、黒い渋皮がまるでコーヒー豆を焙煎しているような香りで、オリゴ糖とブラック岩塩、少しのココナッツオイルを加えたら、真っ黒なペーストがたくさん出来上がった。普通の落花生で作るペーストより、ほんのり苦みがあって、電子12個のパンに塗って食べたら、止まらなくなった(また食べすぎ…)。コーヒーにもよく合う。最近はまたちょこちょこと、こんな風におやつを作ったりできる余裕が出てきて、楽しみながら作って食べてる…ので、やっぱりスリムは遠いなあ。

5/24
人は無意識に目の前の出来事や人を、いい悪いや上下(優劣)で判断し、位置づけをしてしまいがち。そこにあるのは思考、そして、そこから来る感情。それをするのもされるのも、しんどいことだから、全部とっぱらって、そのままの自分でいて、ありのままを受け入れていたいなあと思う。

5/24
きっかけはちょっとしたアクシデントだったけど、それまで何度かメールでやり取りしていたのが、今日初めて電話で話をして、多くを話さなくても、お互い通じるものがあって、何かが流れたみたいでうれしかった。毎日家事をして、散歩して、のんびりコーヒータイムして…。なんていうことのない日常だけど、とても大事な時(今)を生きている気がする。

5/23
いつもならここで引き返すところを、このまままっすぐ行ってみようと、どこに出るかも分からないまま、緑の中を歩く。先日の無有日記に木々の花のことがあったけれど、その日にちょうど、この草って花が咲いてたかな?という草はあったのだけど、今日出会った木々は、ほんとに初めて見る花たち(2種類)で、本当に木々も元気になってきているんだなと思った。歩き足りなくて、夕方また少し歩いていると、太陽の輝きがすごくって、太陽の周りも虹色に輝いていた。太陽、元気だな~。

5/21
今日、いつもの散歩コースで、畑の横にポツンとある会社に「SALE」「マスク安売り」とのぼりが立っていた。何の会社か分からないけど、これまで何かを売っている様子はなかったので、ちょっと不思議な感じ。安売り、というのがいくらなのか分からないけど、値崩れしてきているとしても、元々の値段よりはまだかなり高いだろうと思う。今、世の中的にマスクの行列ってまだあるのかどうか知らないけれど、以前よりは必死にマスクを求める人は減ってきているのではないだろうか。手作りマスクも普及しているし、高い値段で使い捨てのマスクを買う必要がなくなってきているのではという気がする。(先日は100円ショップのレジにも普通に置いてあった)。きっと、この会社はなんらかのルートでマスクが手に入って、これ以上値崩れする前に売りたいと思って、のぼりまで用意したのだと思うけれど…。震災の時でも他の時でも、多くの人が一気に何かを求めると、それを買い占める人たちが現れ、価格を吊り上げ、暴利を得て、多くの人は品切れで右往左往する。しばらくして、その品がそれほど必要なくなってくると、値崩れが起き、在庫を抱えて困る人が出て、以前とは比べ物にならない価格で売りに出されるけれど、だれも見向きもしなくなる。このいつものパターンのベースにあるのは欲と不安なんだろうなと思う。人に不安がなければ、それを元に利益を得ようとする人も出てこない。値段の高騰や値崩れも(原材料不足でもなければ)そうそう起きないだろうし、買い占めも起きなくて、多くの人達に一定の数が行き渡る。マスクがいくらかは興味はないけど、トイレットペーパーだったり、小麦粉だったり、このある種、集団催眠のような状態が延々と繰り返される様子を見ると、私たちは経験から何も学んだり、成長できてないんだなあとあらためて思う。

5/19
ふと感じたこと、なんとなく思っていたことが、無有日記に示されていると感じることが、このところ特によくあって、自分なりに少しでも、体験的、感覚的に理解できていたらうれしい。特に今日付けの無有日記にあった、「思考の素顔」の17番は、自分の中でもいろいろと感じるところがあるけれど、とにかく無有日記と連動していられたら…今はただそれだけ。

5/18
雨が降りそうだったけど、朝のうちから庭の手入れに散歩と、いろいろ動ける今がうれしい。ふと気づけば、子供の頃から、たくさん歩くと必ず痛くなっていた箇所が、毎日かなり歩いているのに痛くならない。たまに、古傷というか、以前かなりよく症状として出ていたところが久しぶりに顔を出すこともあるけれど、その日で治まってしまう感じで、深いところから病みを押し出しているような気がする。毎日よく食べて、よく動いて、ぐっすり寝て。なんにもないけど、なんだかうれしく楽しい毎日。

5/18
誰かの言動に違和感を感じた時、そこに嫌悪感もくっついてたら、それはもう相手じゃなく、自分自身の問題。どこまでも謙虚に、自分の中のいらないものを見つめ、その違和感さえも包み込める余裕を持っていられたら。

5/15
毎日よく歩く。今日もよく歩いた。以前よく車で行っていた場所も、久しぶりに歩いてみると、懐かしさと楽しさで遠足気分。どの場所にも緑があり、小鳥たちの元気な姿が見える。今日も数えきれないぐらいの小鳥たちに出会った。なんと、足元で大きな虫の羽音も聞こえてビックリ。見るとセミが1匹地面に。(ちょっと気が早かったね)身近ではいろんなことがあるけれど、どこかその現実も遠く感じて、ただ、空の青さと風の気持ちよさ、道端の草花の美しさを楽しみながら歩く毎日。朝から夕方まで、太陽が元気でそばにいてくれるから、私も一緒に元気でいる。

5/14
たまたま今朝、リビングの湿度計を見たら、21℃、24%で、湿気はすごいのが当たり前になっていたうちも、ようやくカラッとした気持ちいい空間になってきたなあとうれしくなった。朝起きたら、家中の窓を開ける。太陽の光と風が入って気持ちいい。このまま梅雨知らずで、雨が降っても、その質が変わってきたらうれしいな。

5/14
そうしなきゃ、というのと、ただそうしている(していたい)は、形は同じでも、原因は全然違う。ただ、それでも、そうしているうちに、だんだんと心身共に何かが変わってくるという経験をすることができると思う。何かをしている時の自分を見つめつつ、何も考えず、ただ動いてみるって、なんでもないようだけれど、とても大事なことだと思う。

5/14
日本が大好きで、日本に住んでいたり、憧れを抱いている外国の人達は、中でも日本独自の文化が好きで、日本人以上に、それぞれの分野を理解したり、極めている人が多いなあと思っていたけれど、それは、この国の夜行性色の濃さに惹かれているということなのかもしれない。ということは…。

5/13
何気ないのに、どういうわけか、負い目や罪悪感を感じさせられる感情(言動)。これまでの人生で、どれほどその感情に引っ張られてきただろう。(自分がいつも、「何もできていない」と罪悪感を感じるのはここから来ていたのか、となんとなく感じる)もう、同じことは繰り返さない。歩んできた中での様々な経験が、弱々しかった自分の芯を少しずつしっかりとさせてきてくれたようだ。

5/12
昨日の夜、お腹が痛くなって、ここまでのは何年ぶりだろうという感じで、お腹の大掃除。胃腸の病みにも自信があるので(?)、この機会にどんどん出していきたい。少し体重減ったかな?

5/11
これまで思っていた、いいなという感覚(好み)が、気づけば色々と変わってきている。というか、これまでいいと思い込んでいたその理由が消えてしまった感じ。毎日生まれ変わっていく何か。明日の自分はどんなかな。楽しみ~。

5/11
薄曇りだったけれど外に出ると、どんどん日差しが強くなって、もう夏って感じ。いつもの道を歩いていると、あれっ、毎日見る草花も、木々の緑も、青空も、すべてが色鮮やかで、まるで違う風景に見える。これまでかかっていたフィルターを外したみたいで、なんか新鮮。いつもの風景なのに、キョロキョロと周りを見回しながら歩いてしまった。夕方はどんなかな、また歩いてみよう。

5/8
この道を歩くとシジュウカラとウグイス(とキジ)がいつも合唱していて、この道までくると、スズメにツバメ、という風に、毎日それぞれの場所で元気な小鳥たちに会える。今日はウグイスがすぐ近くでビックリするほど大きな声で鳴いていた。今日はいつもの道だけでは歩き足りなくて、家を通り越して夕方別の道を歩いていたら、太陽の輝きが大きく包んでくれているようだった。朝の太陽もいいけど、夕方の太陽もいいな。前よりたくさん歩いても、それほど疲れなくなった。体力もついてきたのかもしれない。

5/6
一応目覚ましはかけてるけど、電子12個の食を始めてから、目覚ましよりずっと前に自然と目が覚めるようになって、毎日ほぼ目覚ましいらず。今日も小鳥たちのおしゃべりで目が覚めた。曇っていたけれど歩き始めて、帰りには少し雨が降ってきたけど、雨の降りだす直前の匂いも懐かしくて。子供の頃、よく、もうすぐ雨が降ってくる時の匂いを感じてたな。
ここ数ヶ月、朝から元気にいろいろ動いて、暗くなってくるとだんだん動きも落ち着いてきて、夜には自然と眠くなって、気づいたら(?)寝てる。以前より睡眠時間は少なくなってるけど、睡眠不足という感じもなくて、身体が欲するままの生活をしている感じ。明るくなったら起きて、昼間は元気に動いて、夜になったら休息して。時間とか1日3食とかいう決まり事もなく、お腹が空いたら食べる。ずっと昔はそんな感じでみんな過ごしていたのかな。またいろいろ変わっていくのかもしれないけど、今は自分の身体が欲するままに過ごしていたい。

5/3
都内や電車の中では、たまに全身黒ずくめで、マスクも黒のカラスみたいな人を見かけたけど、今日目の前を歩いている人が、全身白で、マスクも服も、長袖に白い手袋までしていて、まるで防護服を着て歩いているようだった。散歩をしているようだったんだけど、コロナ対策なのか、日焼け対策なのか(でも18時前だから日焼けはしなさそう)分からないけど、今の時期、警戒に徹するより、軽快に歩けるTシャツにジーンズがいいな。

5/3
ちょうど昨日今日と、散歩をしていて、新緑がとてもきれいだなあと思っていた。毎年見ているはずなんだけど、今年は特にあちこちで、こんなにきれいだったかな?と思う木々や草花が多くて。そして、ここ数ヶ月の散歩コースでは、道の両脇に、ポピーのオレンジ色をはじめとして、黄色やピンクや白、薄紫など、わざわざ植えられたのではなく、こぼれ種が広がったらしい、たくさんの草花が咲き乱れていて、畑や雑木林の脇道だけど、結構贅沢な景色を見ながら歩いているかも、なんて思っている。朝はたくさん咲いている花々も、夕方通ると花を落としていたり、閉じていたりして、朝と夕方では見える色合いも違ってくる。そんな風景の違いにも気づけるほど、最近は自然と仲良くできているのがうれしい。今日は朝夕共に、車も人も特に少なくて、思いっきりおいしい空気を吸えた。

5/2
朝早く目が覚めて、窓を開けると、そよぐ風のあまりの気持ちよさに、しばらくそのままベッドに寝転がって空を眺めていた。雲一つない青空に、小鳥たちが飛び交っている。なんて穏やかな風景なんだろう。平和で健康で…。そんな風景が普通であっては困るのか、病気(不調)というところに留まらせたい、そこから始まる問題事を抱えたままでいてほしいといった、言動とは裏腹の無意識の意思を感じることもあるけれど、その心配も、「困った」も、向けてほしくはない感情。心配する必要も、困る必要もないのに、そうされることで、ただの現実が途端に問題事に変わってしまう。でももうそこに一緒にいることはないから、さらっと流されて、どうすることもできない様子も伝わってくる。不思議なくらい、いるところが違って、重なるものがない感じ。ダメージが全くないわけではないけれど、これまでとは何かが違ってきている。



4/30
少し前に植えたラベンダーの小さな苗が、蕾をつけ、少しずつ花が咲き始めているのを毎朝見るのが楽しみ。ラベンダーもいろいろ種類があって、ご近所には華やかな赤紫や濃い紫の花をつけているものがあって、それもきれいだけれど、私が植えたのは、いわゆるラベンダー色と言われる薄紫色。自己主張してない感じであんまり目立たないけど、いい色だなと思う。ラベンダー色と言えば、いつも散歩している道に、外壁を塗り替えたおうちがあって、ちょっと珍しいラベンダー色なんだけど、なんでだろう、微妙にキツく感じる。きれいなんだけど…。色って本当に微妙で、ほんのちょっとの違いでいい感じになったり、きつくなったり。あと、同じ色のようでも、素材によっても変わってくる。例えば綿とナイロンでは同じ色のようでも全然印象が違ったり。自然界では鮮やかな色も普通に溶け込んでいるけれど、人工的な素材に乗る色はちょっと派手に感じたり。人それぞれ感じ方も違うと思うけど、自分にフィットするというか、これいいな、と思える色に出会えると、それだけでうれしい。例えば青色のペンひとつとっても、いろんな色があって、そんな中で、書きやすくて、尚且つピッタリくる感じの色のペンに出会えたら、それだけでウキウキしてくる。

4/29
いつもの散歩コースの畑にじゃがいもが植えられていて、毎日少しずつ大きくなっているのが分かる。
写真に撮った時から、もう4年になるんだなあ…。オレンジの観察に始まって、毎日のように写真を撮っていたあの頃。それがどこに繋がるのか、そんなこと考えたこともなく、ただ身体が動いていた。それが「ゼロ感性」となり、今の「Virus(2020)」に繋がるなんて思いもしないで。今、とにかく毎日太陽の光を浴びながら、元気に散歩しているのも、そうすることがいいこと、なんて思ってなくて、ただ太陽が元気だからうれしくて、外に出たくて、歩きたくて。それがどこに繋がるかなんて、やっぱり考えたこともないけれど、思考でないところで感じている(知っている)のかな。今は元気でいることがとても大事なんだと。

4/28
青空の下、車を運転するのも好きだけど、もうひとつの「ドライバー」も好きで、普段から組み立て作業や修理、取り付け作業もちょくちょくやっている。このところも、庭の収納庫を作ったり、水道の蛇口を修理したりと、ドライバーと仲良くしているので、ホームセンターにも時々行くのだけど、残念ながらLED。なので長くはいられない。店内にいる時間より、車で往復している時間の方が長いから、その間、やっぱりドライバー…。(失礼しました)とにかく、どっちも楽しいのです。

4/27
今は誰もが気軽に表現できて、それをいろんな人が目にすること(届けること)ができて、人と人との距離感も近くて、いい面も多いと思う。その一方で、言葉は悪いけど、揚げ足取りというか、ちょっとした表現の未熟さや、偏っていると思われる意見は、多くの目にさらされ、批判されがち。批判する人は、時に批判することを目的にしているようにも見え、相手を下に見たり、敵視したりして、同じ意見の人を味方につけて優越感に浸っているように思えたりもする。でも、いろんな人がいれば、いろんな考え方がある。同じ想いであっても、表現の仕方も様々だから、一見違うように見えることもある気がするし…。こっち側の意見、反対側の意見、とはっきり分けることの方が難しいかもしれない。大切なのは、表現の仕方ではなく、どんな想いでいるかだと思うから、言葉の手前にあるものを感じ、たとえ違う意見であっても、受け入れ、受け止められる懐の広さを持っていられたらいいなと思う。

4/26
スーパーなどで、マスクしないと入店できないとか、飛沫感染防止のため、レジに透明の仕切りをするとか、レジに並ぶときは床に貼られたマークのところに立って、前後の距離を取るようにetc.…。営業時間の短縮も、相変わらずのマスク不足も、これらすべて、本当の原因(LED)を無視していれば、根本的な対策(解決)にはなっていないんだよな、と思う。
マスクをすれば息苦しくて、人との距離にも神経を使えばストレスが溜まるし、感染するのではと不安になったり、それによるトラブルなどで怒りが抑えられなくなれば、それだけLED化した酸素を取り込みやすくなる。LED照明の店内で、ウイルスは、そんな風景の中、元気に飛び回っているんだろうな。
世界中で、コロナ対策にものすごい人とお金が動いているけれど、もし誰か専門家が「原因はLEDです。すぐに世界中のLEDを外すように」って言ったら、みんなそれに従うんだろうか。(さすがに今、省エネが…とかって言わないと思うけど)あるいはSNSなどで、「LEDがあると感染しやすいらしい」なんて話題になったら、一気に拡散するんだろうか…。こんな状況でも、ことLEDというと、ものすごい抵抗が起きるだろうと思うけれど(ある意味、その存在たちの最後の砦だと思うから)、自分に今できることは、アップされた「Virus(2020)」を縁あるところへ届けていくこと。世の中の不安を遠くに、淡々と行こう。

4/25
死生観というほど大げさなものではないのだけど、以前より、人の死に対する捉え方のようなものが変わってきたような気がする。誰かが亡くなった時、生前のその人がどんな人(性格)だったか、何をしたかというところで、その人を評価したり、振り返ったりするけれど、その行為の手前(その人の原因、生命の意思)の大切さを知ると、どんな人だった、というのも、なんとなく見方が変わってくる。それに伴って、可哀そう、というような感情とも少し縁遠くなっているよう。もちろん命は大切だけれど、そこだけで見ていては見えなくなるものもあるかもしれないなと思う。
子供の頃は、死というものは怖いもの、という捉え方の一方で、どこか長く生きることを諦めていたところがあって、かつての「〇〇の大予言」が話題になった時、子供だった私は、「その時は30歳過ぎてるから、おばさんだし、もう充分生きたからいいか」なんて、冷めたような、諦めたようなことを思っていたし、「その時」を過ぎてからも、身体が弱かったせいもあって、ずっと、なんとなく40代で病気になって亡くなると思い続けていた。MEに出会って、死をそれほど怖いと思わなくなったけれど、それと同時に、段階を経て、心身が少しずつ元気になってきている今、もっと元気になって、長生きできそうな気がしている。毎日太陽の下を歩いていると、なんかそんな風に思えてくる。

4/23
嘘の原因を元にした決まり事をいくら守っても、形としての変化(動き)が多少あったとしても、その原因の部分では何も変わっていないのだろうな、と思う。買い物に行くと、どんどん制限(ルール)が増えていっていて、ちょっとびっくりしたりするけど、散歩に行くと、とてものどかで、今日はマスクをしていない人達も何人かいて、いつも通りの穏やかな風景に、世の中の出来事が現実ではないような、どこか作りものの世界のように感じられる。

4/23
病気になると、堂々と心配してもらえる権利(?)を得たかのように、まるでアピールするかのように、その様子を伝える人って時々いるなと思う。こちらは何も心配していないんだけど…。

4/20
今回のコロナウイルスの大きな原因としてLEDがあるけれど、そのコロナウイルスを殺菌するためにLEDの紫外線灯が注目されているようで、ハンディタイプのものだけでなく、施設に設置してLEDを照射する装置もあり、すでに病院や介護施設、幼稚園など、色々なところで使用されているそう。LEDによってコロナウイルスを殺菌するけど、コロナウイルスはLEDがあるところ(LED化した酸素)で元気に活動するのだから…???人がいる空間でずっと照射していても大丈夫とのことらしいけれど、その空間にいる人の体内はどうなっているのだろう?

4/19
今朝の空気は本当に澄んでいてきれいだった。朝からたくさん洗濯して、布団も干して、庭で作業して、散歩して。太陽が出ていると、ずっと外にいたくなる。最近は2回散歩に出ることも。
この辺りは田舎で、人通りも元々少なめなので、この時期それほど人とすれ違うこともないのだけど、マスクをしていないせいか、すれ違うかなり手前で、たいていの人は、道の反対側へと渡って避けてくれる。歩きやすいけれど、そんなに不安なのか…とも思う。散歩の他に、ジョギングしている人もちらほら見かけるけど、走りながらやっぱりマスクをしていて、息苦しそう…。青い空に白い雲がほわほわ浮かんでて、ゆったりと雲の形が変わっていく。太陽の光がうれしくて、空を見あげる。時々、花のいい香りがして、思わず深呼吸する。マスクをして足早に歩いていると、そんな楽しみも味わえなくなってしまう。それって、とてももったいないことだなと思う。

4/17
いつもの風景が、コロナ不安によって、なんだかすごいことになっているけれど、それより目立つのが、そういう中での「自分さえよければ」という空気を前面に出した人の言動。ぶつかることはないけれど、その風景をそういうものだ、と見なかったことにもできない。しっかりと違和感を感じる自分の感覚(感性)が、次へと繋がる原因となるよう、自分自身も「どんな自分が」を大切にしていたいと思う。

4/15
朝、窓を開けると雲ひとつない青空。それだけでうれしくなって、朝から元気に動ける。色々家事をやって、ふっくらとしたパンケーキとコーヒーでひと息。今日はアーモンドプードルを入れてみた。サクサクとして美味しい。シニア犬だけど、食欲旺盛なうちのわんこが匂いにつられてやってきたので、お裾分け。ひと休みしたら、一緒に散歩に行こう。なんか幸せだなあ。今日も平和な1日の始まり。

4/13
最近、味覚というのは、これまで思っていたものとちょっと違うのかな、と思い始めている。舌が味を感じて、美味しいとかまずいと感じるけれど、それを判断するのは脳で、脳がその身体に必要な物質を美味しいと感じるのではないかな、と。つまり、お肉がその人の身体にとって必要だとしたら、お肉を美味しいと思うし、必要ないと思えば美味しく感じないとか。あたり前だけど、脳も細胞で、それを構成する元素があって、その元素世界の原因がどうであるかによって、体内に何を摂り入れたいかというのが変わってくるのかな、なんて。美味しいかまずいかを判断するのは舌(味の好み)ではなくて、その人の原因(の意思)によるものではないのかなと…。よく、舌は慣れだとかって、濃い味が好きだった人も薄味にしていくと、それを美味しく感じるとかあるけれど、ある生命本来とかけ離れた物質を体内に取り入れようとする意思があっても、そうではないものを摂り続けていくうちに、身体細胞も少しずつ変化していき、そのことで体内を構成している元素の割合も変わっていって、次第に必要とする物質も変化する…そんなことがあるのかも、と思う。生命食が始まる前に美味しいと感じていたものを、今食べたら、きっと全然美味しくない、と思うものがたくさんあるような気がする。全粒穀物食や果物、生野菜を中心に、お肉から遠く離れてずいぶん経つけれど、そこで身体細胞も必要とする物質(元素)が少しずつ変わるためのベースができ、1年ちょっと前のブラック岩塩でさらに弾みがついた感じなのか、今また電子12個の食で、これまで美味しい(必要)と感じていたものが、そうでもなくなってきている。少しずつ自分の身体の中身が変わりつつあるのかも。摂らなくなったものもいろいろあるけれど、それは、食事制限(我慢)とかいう世界とは遠く離れているから、後戻りすることはないのだと思う。本当に身体にとって必要なものって、すごく少なくて、シンプルなのかもしれない。

4/12
電子12個の食を始めてから、どんどん早起きになって、夜も眠くなったらすっと眠れるようになって、毎日元気。でもこのところの急にやってくる眠気と、昨日今日の突然やってくるしんどさ。ただ、それももう終わりの始まりの気がして、これまでのような気持ちの落ち込みは伴わないでいられるし、動けるときは元気に動けるから、やっぱり同じではないなと思う。ベースは確実に変わっていて、まだしつこく残っているものが消えるための動きのような気がする。何があっても、余計な感情は伴わず、淡々と過ごせている今がうれしい。小鳥たちも毎日楽しくおしゃべりしながら空を飛んでるし、雨が降っても地震が起きても、毎日なんだかんだ太陽に会えて、元気に散歩できてるし、全部オッケーだ。

4/9
このところは散歩をしていると、道の両脇にたくさん花が咲いていて、とてもいい香りが漂ってくる。春だな~と思うけれど、昔は季節もなかったんだと思うと、毎日こんな感じの穏やかで花の香りがする風景だったのだろうか、なんて想像してみる。ふと立ち止まって、この場所は100年前も、1万年前も、もっとずっと昔にもあって、でもその風景はその時々で様々に移り変わってきたんだな、と、遠い昔に想いを馳せてみたりも。毎日見る、青い空も、もっと違う色だったんだろうか。そして、はるか遠い昔、透明だった時の太陽や地球。できることなら、今自分がここにいることが少しでもその時の太陽や地球の道へと繋がればいいな。

4/9
立場が違えば、何を大事にするか(優先するか)はいろいろ違ってくると思うけれど、お金より健康、争いより平和(調和ある風景)っていうのは、誰もが1番に大切にするものだと思う。見た目(他人の目)を気にして形を優先するより、自分や周りの人の心身の健康を思えば、自然と中身が大切にされるし、そんな時、経済的なことはある程度(生活できないと困るけど)後回しになってもいい気がする。そして、世の中が混乱すると、なんとなくみんなの空気もピリピリして、ちょっとしたことで争いも起きそうになるけれど、自分は関係なくても(悪くなくても)とりあえず謝っちゃったり、譲ってしまうと、その場の空気が一転して柔らかになったりするので、そんな余裕を持っていられるといいかなと思う。まずは元気で、のほほんと楽しく。

4/6
今回の状況を自分なりに観察して思うのは、いい(状況)悪い(状況)、というのではなく、本来でないものが本来へと戻る、ただそれだけなんだなと。数年前から、みんなでLEDの影響について、いろんな人たちに伝えてきたけれど、(小さなところで形だけの動きはあっても)結局は何も動かなかった。そのLEDと原因が繋がっているものが、今、世界的に大きな動きを引き起こしている。そのことをどこか不思議(?)な感じも伴いながら眺めている自分がいる。きっと、簡単にLED化が動かない原因は、こうして世界中が根底からひっくり返らなければならないほど、大きく、深いものなのだろうと。もし、自分の身体の中に、LEDの原因と繋がっているもの(LED化した細胞)があれば、ウイルスと結びついて、それが形として現れる。ある意味、これまでの日常生活がどうだったかということが正直に反映されるということなのかもしれない。でも、だから感染したら仕方がない、とか、諦める、という受け止め方ではなく、本来でなかったものが修正される、ただそれだけで、そこに(運が)いいとか悪いとか、感染ったらどうしようとか、そんな考えや不安は一切要らないんだと思う。中途半端に表面だけ動いて、深い部分がそのままでまた同じことが繰り返される。そんなことはもう終わりなんだと。そう思うと、地球だけじゃなく、もっと広いところにも意識が向いて、深いところから希望が感じられる。今は不安ではなく、希望を感じる時なのかもしれない。

4/5
ちょうど1年ぐらい前、家族が食パンをサンドイッチにして食べたいというので、それ以来、毎日のようにホームベーカリーで食パンを作っているのだけど、電子12個の食が始まって、これまでのレシピに少しアレンジを加えて何割かを電子12個に置き換えてみたりしても、なんかイマイチな感じで…。1ヶ月ほど前に、ふと、思い切って電子12個とてんさい糖、ブラック岩塩、酵母、水、という超シンプルな材料でパンを焼いてみたら、他には何も入れなくてもおいしいというか、入れない方が軽くていい感じで、作るのも簡単だし、食べた後も軽くて体も楽で、それ以来ほぼ毎日焼いています。
電子12個で、パンやパンケーキを焼いていて思うのが、焼いた後のホームベーカリーのパンケースについたパンの欠片も、パンケーキの材料を混ぜたボウルも、炊飯器の内釜も、ベタベタくっつくことがなく、さらっとしていて、洗うのもとても楽だということ。グルテンが入っていないせいなのかな。身体の中でもやっぱり同じようにさらっとしているから軽くて楽なんだろうか、なんて、そんなことを思ったりしています。約30年続いたお弁当作りがなくなったせいもあって、一般的なおかず、という意識がどんどんなくなって、気の向くまま、電子12個の食を中心に、適当に料理をしているけれど、それもどんどんシンプルに、そして、食べる時間も気の向くまま、お腹と相談して適当に食べています。こうじゃなきゃ、がどんどん外れて、とても自由で楽~。

4/3
市の取り決めなどによって、これまで毎年あたり前に行っていたことも、色々と変更・中止になっていて、それによってこちらの動きも変更せざるを得ないこともあるけれど、それに対して不思議なくらい感情が動くこともなく、必要なことは必要なこととして、流れのままに淡々と動いている。
今日は狂犬病の予防接種に動物病院へ。例年なら、歩いて数分の、団地内の公園に車が来てくれて、来た人から順番に受け付けてくれて、あっという間に終わるのだけど、今年は中止になったので、各自、市内の動物病院へ行くよう連絡があった。行ってみると、ものすごい人で、待合室はいっぱい。コロナ対策のため、予防接種のみの人は、呼ばれるまで外か車で待つよう言われたけど、事前に予約をしてから行ったので、すぐに呼ばれてやってもらえた。でも、他の人達は狭い場所に密集していて、ここで長い時間待つのなら、広い公園であっという間に終わる方がみんな安心なのでは、と思った。それもこちら側の都合で、廻ってきてくれる獣医さんたちの立場だとまた違うのかも。いずれにしても、人が集まれば集まるほど、そこに漂う不安の空気。そこに同調しないでいられるのは、電子12個の食も大きいのかなと思う。

4/1
マスクを手作りして送ってほしいと言われ、マスクの問題じゃないと思うけど…と思いつつ、「はいはい」と、材料を買いに行った。近くのお店ではどこもマスクが品切れのため、手作りマスクの作り方を紹介していて、そのせいか材料(布&ゴム)も売り切れ。ふと思いついて、安い男性用の綿100%の下着のシャツを買って、家にあった、接着芯(布をしっかりさせる不織布)を貼り、やっぱり家にあった細めのゴムを使って、立体マスクを作ってみた。しばらく、裾上げぐらいしかミシンを使っていなかったけれど、いざ作り始めたら、なんだか楽しくて止まらなくなり、そんなにいらなかったけど、LLのシャツ1枚で、マスクが10枚も出来てしまった。(そのうち政府から2枚送られてくるらしいけど…)市販のガーゼマスクよりずっとしっかりしていて、顔にもフィットして、我ながら上出来~と自己満足。やっぱり何かを作るって楽しいな。



3/30
昨日は久しぶりにとても寒くて、今日もまだ気温は低かったけれど、首元だけ温かくして、少し軽めの上着を着て出たら、思ったほど寒くなかった。
そういえば、2月頃は毎日のように内側からの寒気が出ていたけれど、ふと気づけばこのところはそれもなくなっている。不安や人目を気にしてばかりの人とのやり取りで、思考を使ってしまうことがあったけれど、これまでよりは後に残らないで済んでいる。ふと気づけば…という感じで、いろんなところで楽になったという意識もなく、楽になっているのかも。

3/28
マスク不足という割に、けっこう多くの人がマスクをしているよう。そんな中で、マスクをしていないと、非常識に見られるって…。マスクが手に入らなければ、当然していない人もいるはずだし、くしゃみや咳をする時は、ハンカチなどで鼻や口を覆えば十分マナーは守られると思うのだけど、世の中的にはそれではダメなのかな。

3/27
電子12個の食物を食べる(身体に摂り入れる)ということは、これまで自分の身体を作ってきた細胞のその中身を入れ替えるということだから、その可能性を思うと、それだけでもすごいことだけど、全粒穀物(精白されていないもの)って、その中でもやっぱり生命力という部分では大きい気がする。電子12個の食物を発芽させて食べると、そのあとの元気度がさらに違うみたいで、本当によく動けて疲れにくく、疲れてもすぐに回復する。発芽する様子って、見ているだけでもかわいくて本当に楽しい。

3/26
こんなに元気なのはいつ以来だろう?理由もなくうれしくて楽しくて、いろいろ動きたくて仕方がなくなる。元気の質が更新されていく感じ。
引っ越してきた時は庭いっぱいに花を植えていたけれど、いつの間にかその元気もなくなり、なによりここ数年は、LEDのヘッドライトに照らされると思うと、なかなか花を植える気にならなかったけれど、ようやくその元気とタイミングが来たようで、先週、久しぶりに花壇を手入れして、今日、ラベンダーを植えてみた。苗からすでに、ふっといい香りが漂ってくる。元気に咲いてくれたらいいな。
私もちょうど昨日、ふと湿度計を見たら、湿気の多いので有名な(?)我が家のリビングが39%で、いよいようちも静電気が減ってきたのかなとうれしくなった。これからが楽しみだなあ。

3/23
今日散歩をしていて、いつもより身体の筋肉をちゃんと使って歩いているな、と感じた。微妙な感覚なのだけど、これまでとの違いが敏感に感じられるよう。普通に生活している中で、どんどん健康的な身体の動かし方ができるようになって、筋肉もついてきたらいいなと思う。それも電子12個の食によって、身体のタンパク質が入れ替わってくれつつある今だからこそと思うと、このタイミングがとてもうれしく、これからが楽しみでもあります。

3/22
散歩をしている時や何かふとした時に、それまでの穏やかでのんびりした気持ちの中に、すっとどんよりした気持ちが入ってきそうに(出てきそうに)なる時がある。どんよりした気持ちになる理由もないのに、まるで、その機会をうかがっていたかのように、隙をついてハッピー感を覆ってしまおうとする意思…を感じるのだけれど、どうも今はそれができないでいるみたいで、自分の周りでなんとか入り込もうとふわふわ漂い、そのうち諦めたかのように、すぐに消えていく。なんとなく、まだ自分の中のある場所に留まっている、もう一人の自分の意思が、存在感を示したいみたいなんだけど、どうにもうまくいかないようで、またすぐ何事もなかったかのように穏やかでのんびりしている。これまでにない変化の途中には、反動もあるのだろうけれど、そんなこんなも観察しながら、どんどん元気になっていこう。

3/21
既存のレシピを参考に見ながら、その通りには行かないだろうなと思っていたら、途中でやっぱり無理そうだなあ…と、適当にレシピを変えてみたら、思いの外うまくいって、やっぱりてきと~って大事だなあと、ひとりニマニマしてしまった。これでまた食の可能性が広がった感じで、些細なことだけど、なんかうれしい。食がどんどんシンプルになって、でもバリエーションが増えて、楽しくて…。
身体も軽くて、毎日元気に動ける。疲れてもすぐに回復する。先月のワーク後から、希望が持てるといううれしさがあったけれど、この希望って何なのか、自分でもよく分からない。ただ、なんだか希望が持てる、そう感じる。その希望が太陽や地球と繋がっているものなら、最高にうれしい。

3/19
朝から色々身体を動かして、いつもなら午後には疲れ切っていたけれど、ちょっと休んだらまた元気に散歩している自分がいて、なんかこれまでと違うなあって感じ。台所の様子もまた変わってきて、遠く離れてしまったもの、新たに加わったもの。今、新たに加わったものたちと、もっと仲良くなれるよう、色々試してみています。そんなことも楽しくて。少しずつ少しずつ、ベースができてきたような、力がついてきたような、そんな感じがして、うれしさが広がっていきます。

3/18
今日、散歩をしていたら、また救急車が停まっていて、しばらくしたらサイレンを鳴らして走り去っていった。”また”というのは、このところ、うちの近所に毎日のように救急車がやってくるから。お年寄りが多いので…というのはあるのだけど、ここまで連続してというのはこれまでになかったこと。もしかしたら、このところの流れで不安になってしまい、それで体調を崩してしまっているのかもしれないなと思う。不安って伝染するところがあるような気がして、人から人へ不安が拡がっていくと同時に、自分自身の不安で自らを病気(不調)にしてしまっているように思える。
ニュースも、不安でいっぱいの人が見れば見ただけ、不安が膨らんでしまうだろうし、誰かの根拠のない情報に振り回されて、疲れてしまう。なんとなく、今の流れを把握しておくぐらいで、細かな新情報を探し回らず、毎日を元気に楽しく過ごすことが、この時期大事なことなのかな、という気がする。

3/17
新しい食の実践を始めて約1ヶ月。先日のワークで、みんなと情報交換したりして、食べ方や種類(形態)も増え、さらに食べること、作ることが楽しくなってきました。
今朝起きたら青空が広がっていて、うれしくてすぐに散歩に出たら、なんだか足取りが軽い。特に何もなくても、なんだかうれしさが続いていて…。夕方、台所に立っていたら、よくある胸の症状が出てきたけれど、これって自分の中にある抵抗なんだな、って思ったら、その瞬間に治まって、一人納得。食の実践が楽しくてうれしい自分と、元気になることを止めたい自分。その抵抗もだんだん力をなくしていくんだろうと思うと、それもまた楽しみです。

3/13
自然界に本当は毒って存在しなかったのだろうな、とふと思う。ヘビやサソリ、フグやクラゲ、蜘蛛、蜂、ムカデなど、今は数えきれないほどいる毒をもつ生き物は、本来地球にはいなかったんだと思うし、すべての生命が調和ある生を営んでいれば、身を守るために毒で攻撃したり、食べられないようにしたりというのは、本来必要なくて、動物が動物を食べることも、毒のある植物やキノコなどを食べて命を失うということもあり得ないこと。そう思うと、どれだけ本来から離れた今なんだろうと思う。(ちなみに、特別に免許のある人が調理しなければいけないほど危険な毒のあるフグをわざわざ食べる(しかも高い)というのがよく分からない…)毒とはちょっと違うけれど、漆なんかにかぶれることも、何かのアレルギーなんかも、地球上で共存していく中ではあり得ないことなんだろうな。アレルギーの対象(花粉など)が変異したのか、それとも人間の体が本来からかけ離れているからなのか、その両方か…。よく分からないけれど、そんなところも本来へと変わっていったらいいなと思う。(そういう私もこの時期はちょっとしんどい日があったりするけど、以前よりよくなってきたような…)

3/12
あるお店で受付をしてくれた店員さんに「お呼びしますので少々お待ちください」と言われ、待っていると、「○○様、お待たせしました」と、別のお客さんに話しかけていて、慌てて「私です!」と声をかけたのだけど、店員さんは気づかず、そのままそのお客さんに話を始めていて…。待っている人、私とその人しかいなくて、しかも受付の時に顔を見ながら結構話をしたのに…。店員さんも「あれっ、何で間違えたんだろう?」という様子でびっくりしていた。(ちなみにもう一人の人とは年齢も服装も全然違っていた)ちょっと不思議だったけど、おかげでそのあと、すごく打ち解けた感じで話ができて、なんかよかったな。

3/12
たまたま、生命食を抑え込み、精白穀物食を推し進めた歴史の一部に触れる機会があり、こうしてずっと嘘の価値観が、本来の健康を喜ばない意思によって支えられてきたのだなとあらためて感じた。世の中に溢れる健康情報も、嘘の細胞にとってのそれだとすれば、いくら頑張って実践しても、本当の意味での健康とは全く違ったものになってしまう。次から次へと飽きることなく続く、様々な情報に踊らされることなく、ただ淡々と、ブラック岩塩と、ここで合流してくれた新たな生命食を楽しみながら摂り、細胞から生き直しをする。

3/11
朝起きると1番にすること。カーテンを開けて、太陽の光を浴びること。晴れていたらそれだけでうれしいし、お天気が悪ければ少しでも明るさを取り込みたい。それって普通だと思うのだけど…。このところ、ずっと気になっていたこと。うちの近所だけなのかもしれないけど、なぜか最近、昼間でも雨戸を開けない箇所が増えてきている。もちろん全部というわけではないのだけど、これまでは朝早くから開けていたおうちが、一部分、ずっと閉めっぱなしで、ちょっと不思議。他の家も見てみると、昼間もずっと閉まっている箇所が増えている。薄暗い家の中では、カーテン越しにLED照明が点いていて…。太陽の光を避けてLEDを点けるのって、よく分からないけど、それが居心地いいのかな?

3/9
振り幅が大きなこのところだけれど、今日は雨が上がって太陽が顔を出してくれたので、早速散歩に出てみると、暑くて、早々に上着を脱いで、歩いたりちょこちょこ走ったり。昨日が嘘のように軽く動けて、おまけに元気が出てきた。やっぱり太陽の光を浴びながら歩くって大きいな。
このところ、「太陽と地球と無有日記」の新しい文章がアップされると、なんとなく遊び心で、センテンスを青いペンで書き写してみたり、読んだものを自分なりにちょこちょことメモしてまとめてみたり。深く理解したいとかいうのではなくて、今はただ「太陽と地球と無有日記」と遊ぶように触れていたい。そんな気持ちでペンを走らせていると、なんだかそれだけで楽しくなってきます。

3/5
今日、買いたいものがあってデパートに行ったら、コロナの影響で11時からです、と言われて、ちょっとビックリ。そういえばあちこちお休みにしたり、営業時間を短縮したりしてるって、ニュースで言ってたような…。あと40分もあるけど、と思ったけど、センテンス読んだりしているうちに案外時間は過ぎていって、そんなに困らなかった。オープンの時間になると、デパートの人もみんなマスクをしていて、「お客様と従業員を守るために…」って、コロナについての放送も流れて、なんだか物々しい感じ。でも人が少なくて買い物しやすくてよかったかも。
いろんなモノが店頭から消えたりしているのを見て、ふと、下の子が産まれた頃を思い出した。実家から戻る時、ちょうどお米がないと世の中が騒いでいて、タイ米しか手に入りにくくなっていて、「上の1歳の子がおにぎりが好きだから、国産米を買わなくちゃ」と、引っ越したばかりで土地勘がない中、車であちこちお米を探し回ったっけ。結局、ビックリするような高い値段で10キロのお米を実家の分とあわせて2袋買ってしまって、でも案外すぐに普通にお米は手に入ったような…。今の自分ならきっと、ないならないなりに、違うものでやり過ごしていただろうけれど、当時は不安だったんだろうな。当時なら、やっぱりトイレットペーパーとか買いに並んだのかも。トイレットペーパーもティッシュも、なかったら適当な要らない布とか、タオルとか、使い捨てにして、なんとかなるなあと、今なら思う。不安とか、こうじゃなきゃって思い込みは、余裕をなくさせてしまうんだな。

3/2
もう10年以上前になるんだなぁ、、「食の風景」が始まった時、果物とサラダをビックリするぐらい食べるようになって、その後、サラダの量はだんだん落ち着いていったけれど、果物はやっぱりかなりたくさん食べていて…。1年以上前、ブラック岩塩と出会って、やっぱりものすごくたくさん身体に摂り入れ続け、そして今、また新たに出会った電子12個の食物。不思議なんだけど、1度出会ったら(果物は以前から好きだったけど)、それぞれ食べたほうがいいというより、とてもおいしくて、身体が欲するというか、喜んでいる感じがして、元々あたり前にずっと食べていたような。自分にはこれが足りなかったんだなって感じで、あっという間に食生活に馴染んでいます。そしてここへきて、少し果物の量が落ち着いてきて、これまで毎日食べていたものも、あまり食べたいと思わないというか、ちょっと遠くなってしまいました。まるで、センターのメンバーが入れ替わって、今は電子12個の食物が中心にいる感じです。病みがしつこいもの、好転反応(?)が出て少し落ち着いてきたもの、いろいろで、まだ軽やかにとはいかないけれど、少しずつでも心身ともに軽くなっていったらうれしいなと思います。



2/28
これはあの時の状況と似ているなと思うことがあって、同じ繰り返しをしているようだけれど、でもその時のいろいろも自分なりの体験的知識となってくれて、少なくとも不安や心配からは離れられている。それだけでも全然違うなと思います。身体の不調より、気持ちがどうかの方が大きくて、分かっていてもどうにもならないところもあるけれど、それもまたどこか別の自分が観察できていて…。本当の自分が活躍するには、まだまだいらないものがたくさんあるけれど、何かに覆われながらも芯の部分は少しずつ力強くなってきているような、そんな感じもして、それはブラック岩塩と、太古からの穀物の応援も大きいなと思います。力強いサポートがあるのだから、元気に行こう!

2/21
昨日散歩をしていたら、9月の台風で根元から折れて倒れながらも、花をたくさん咲かせている梅の木を見かけました。根元のところで辛うじて繋がっていて、もうそんなに長くは生きられないだろうけれど、それでも最後まで生命として繋ぐということを、淡々と営んでいるんだなあって思いました。その横では完全に折れてしまった木が土に還りつつある様子があり、どんな状態になっても、そこにいて、与えられた自らの分を生きるっていうことを木々に見せてもらった気がします。身体はいろいろ出てきているけれど、なぜかこれからに希望を感じられて、わけもなく、静かにうれしさを感じています。

2/20
不安と欲は繋がっていて、不安になるとその不安を解消できる何かを手に入れたくなり、その不安を利用して利益を得ようとする存在と一緒になって、非人間的な風景を繰り広げる。その不安が高まれば、周りのことなどお構いなしに、凶暴な本性を丸出しにして、自分の身だけを守ろうとする。人間はずっと大小様々にそんな繰り返しをし続けてきたのかもしれないなと、このところますます顕になるそんな様子を、距離を置いて眺めています。自分も何度その風景の中で不安いっぱいに過ごしてきたのだろう。不安がなくなる(減る)ということは、そんな風景とは無縁でいられ、一生命としての生を楽しみながら生きられるということだと思うと、不安の元の思考の状態が変わることって本当に大きいなあと。
不安は減ったような気がするけれど、何かあった時の罪悪感などはまだまだしつこくて、ほんとにへなちょこだなあと思うけど、そんな自分を見つめつつ、ありのままでいきます。

2/16
地球や宇宙のことになると、大きすぎて想像もつかないけど、身近なところで言えば、自分自身を含め、人間の変化や本来への道って、自分の経験や思考の範囲内でしか想像できなくて、そのペースも含めて、なんとなくこれまでの延長線上にあるような気がしていました。でも、MEと共に歩んでいる中で、ある時突然ステージが変わるというか、ここまで来たからこそのタイミングをずっと待ってくれていた仲間(人間に限らず)が強力に応援してくれて、いろんなことが一気に動き出し、大きくジャンプするかのように変わり出す、そういうチャンスに出会えるんだなあと、ここへきてまたあらためて、淡々と歩んでいくことの大切さを感じています。これから世の中は好転反応でいろんなことが起きるのだろうけれど、「無有日記」が伝えてくれるように、私たちは地磁気を通せる自分でいられるよう、自分の中からいらないものを外し、ただ淡々と歩み続ける。センテンスに触れることも、処方箋をやることも、何かを実践することもすべて、ご利益的に(自分のためだけ)では、きっと何も変わらなくて、大切なのはその手前の想い。ここまで歩ませてもらったからこそ、出会った頃のような新たな気持ちで、また歩み始めよう。

2/13
昨日、太陽の光を浴びながら、内側からうれしさが湧き上がってきて、この感じは久しぶりだなあって、どんどん軽やかに行けそうな気がした。今日はまたいろいろ身体に出ていて、自分の中にこの流れを喜ばない意思を感じるけれど、そんなの気にしないで、これからどんどん元気になっていけるんだなあって、やっぱりうれしい気持ちが続いている。
昨日ホームセンターに行ったら、いろいろと棚が空になっていて、見るとウエットティッシュや除菌グッズだった。マスクはありません、っていう張り紙もあって、みんな不安に煽られているみたいだけど、そんな風景は遠くに、普通に、元気に過ごしていく。

2/7
自身の不調も、誰かの問題事も、世の中の病気や争いも、元は同じ、全部非生命源から…ということが、頭じゃないところでなんとなく感じられると、自分や誰の何も境目がなく、結果としてのひとつひとつの現象に目を向けるより、その大元が動くことに意識が向く。自分の状態と身近な人の状態が連動していたり、外での人々の状態がみな同じように感じられるのも、力の強弱はあっても、元は同じ意思の元に動いている(動かされている)からなのだということも体験的に感じられる。このところ、身体の反応と共に、自分の中にある別の意思がはっきりと感じられて、以前は一体化していて、なんでこんなことを思ってしまうのだろうとか、こんな気持ちになってしまうのだろうと、自分を責めたり、落ち込んだりしたけれど、そこから少し距離を置いて観察できるようになってくると、その意思が何を望んでいるのかということもちょっと見えてくるようで…(これまでは頭では分かっているつもりでも飲み込まれていた感じ)。だからこそ、その意思が嫌がることをすることが必要なんだなって、これまでの歩みでさせてもらってきたことを振り返って、あらためて感じています。

2/6
マスクが品切れで高値で転売されていたり、それでも不安から異常な値段のマスクでも買ってしまう人達がいる一方で、相変わらず公共の場所での手洗いをしない人がいて、なんだか不思議。例えば東京駅やデパートのトイレって、海外からの人達を含め、ものすごくたくさんの人が利用しているのに、トイレから出て、石けんも使わず、ちょっと手を濡らしておしまいの人や、中には洗わないでそのまま出ていく人たちが結構います。そういう人がまたあちこち触るわけなので、ウイルスが広がってしまうのは当然かも。私は外出時には、紙石けんor小さな泡ポンプ容器に入れた液体せっけんorクリーム状のハンドソープなど、石けんが置いていないところで使えるように、何かしらいつも持ち歩いています。あと、ウエットティッシュも。最近のヒット作は、ふと思いついて、おまけでもらったミニ石けんを、おろし金で削って、それを小さな容器に入れて持ち運べるようにしたもの。(口の大きなワンタッチの蓋の容器などに入れて、パラパラと出せばすぐに溶けるのでとても便利です。)病気がうつるとかいう以前に、普段の衛生面で、やっぱり手はきれいにしておきたいなあと思うのです。

2/6
不調があると、現実として日常生活に困ったり、辛かったりして、どうしてもそこに意識が向いてしまいがちだけれど、同時にいつも思うのが、原因が変わらないと、ということ。症状が良くなると安心するけれど、その症状の原因の部分が力を持ったままだと、ただ息を潜めて隠れているだけで、何かの時にまた出てきたり、形を変えて繰り返されてしまう。でも、辛いと前向きな気持ちさえ持てなくなってしまうから、ある程度の状態はキープしつつ、必要以上にそこに意識を向けずにいられたらと思います。絶え間なくMEに支えられているから、何があっても大丈夫、という深いところでの安心感。それがあり、気持ちが持って行かれなければ多少のことはOKで、それより「太陽と地球と無有日記」に触れながら、もっともっと大きなところが動き始めるこれからを思うと、なんだかワクワクします。

2/1
昨日は夜中に2回地震があって、防災無線によると震度5弱。その数日前から青空が広がっているのに、黒い雲が固まって(いつもだいたい同じ方向)動かなかったり、風がすごい日が続いていたり、晴れていたかと思うと急にどんよりした曇り空になったり、どうもこのところいろいろあります。でも、今日も風は強かったけれど、どこまでも青い空がひろがっていて、それだけでやっぱりちょっと元気になる。自分の分からないところでいろんなことが起きているのだろうけれど、自分はただ毎日家事をやって、散歩して、コーヒー飲んで。なんにもしてないけど、毎日普通に過ごすことしかできないから、何も考えず、毎日をHAPPYに過ごしていよう。

2/1
誰かの影響を受けたり、非生命的なエネルギーを通してしまったり、本来の自分でない自分(誰か)を感じたとしても、それもまた自分(その人)。誰かと接したり、何かに触れたりした時の反応も、相手(誰か)からのものか、自身の病みか分からないから、思考で判断せず、ただ感じるままで。少しでも被害者意識(や否定感情)を持ってしまえば、いつまでもそこから離れられなくなる。今がどんなでも、ただ現実を受け入れ、受け止めて、またそこから歩きだせばいいのだと思う。きっと、本来の自分はそんな自分を余裕で見守ってくれているから。



1/30
例えば何か失敗した時、過ちを犯してしまった時、もしそのことで誰かに迷惑をかけたり傷つけてしまったなら、その相手の人達に謝ることは普通だと思う。でも、直接何の関係もない人たちが、その人のことを断罪するとなると、ちょっと違う気がする。特に有名人のことはそうだと思うけれど、有名・無名に関わらず、今は人のプライバシーを含め、色々な情報があっという間に世の中に知れ渡り、それに対する意見を誰もが世の中に発信できる。誰もが自分の思うことを気軽に表現できることはいいことだと思うけれど、同時にその匿名性も手伝って、平気で心無いことを言う人が多いなとも感じる。「責められるべき人」を見つけると、正しさを武器に、責めることを正当化できてしまうのかもしれないけれど、そういう人を見つけては過剰に反応する人たちは、ただ普段の不満をそこにぶつけてストレスを解消しているだけのようで、いじめと変わらないなあと。そして多分、その意見は誰か影響力を持つ人が違うことを言えば、簡単に翻ってしまうぐらい、実は中身のないものなのではないかという気がする。

1/27
先日の水道管の破裂による道路陥没について、市の水道課にメールで「ゼロ感性」を伝えてみました。これまで、個人に対してだけでなく、役所や病院、鉄道関連やホテルなど、いろんなところにLEDの影響について、メールや郵送、直接手渡しなどで伝えてきて、その多くがスルー、またはお決まりの形での回答だったけれど、このところ、人としての反応がちゃんと返ってくることが出てきて、なんだかうれしい。今日は早速水道課の方から電話がかかってきて、貴重な情報をありがとうございますということ、みんなで共有し、話し合うということ、さらには(短めにメールしたので)私に「他に何かありますか?」と話を聞いてくれたので、知っておいてほしいこと、自分の想いなど、伝えることができました。同じような言葉でも、声の様子から、ちゃんとこちらの話を聞いてみようという様子が伝わってきて、「ゼロ感性」が以前よりさらに力強くなってきたのかなと、うれしくなりました。

1/25
また、道路の陥没が起きました。今度は隣の市ではなく市内です。今度もまた、水道管の工事直後に古い水道管が壊れて水が溢れ出したことが原因のようだけれど、今回はケガをした人もいて、日常の買い物など、移動手段がほぼ車という土地柄、不安に思う人も多いのではと思います。去年の9月の台風後、隣の市で道路が陥没したことを日記に書いたけれど、その後10月に完全に道路が寸断されるという、大きな陥没がやはり市内で起きていました。まさに「LED(雨水、ライト)による道路の亀裂は、陥没へと繋がり、地下に在る水道管やガス管の劣化(破損)を招く。その手前では、電柱や街路灯が傾く。一度事が生じれば、当然修復作業が為されるが、そのことで、一層地盤は脆くなり、悪循環の質は高まる。(LED感染(4)23番より」です。今、全国的に水道管が脆くなっているようで、これからあちこちで水道管の工事が増え、そのことでさらに道路が脆くなり、水道管の破裂や道路の陥没が起きるのだろうと思います。その復旧にかかる時間と労力、お金を考えても、到底LEDがエコだとは思えません。老朽化という言葉で済ませるパターンは、もうそろそろ卒業してもいいのでは…。

1/23
中国の春節に伴う大移動での、コロナウイルス感染拡大が懸念されているよう。WHOは感染予防に手洗いを勧めているようなのだけど、ふと、少し前にTVでたまたま見かけた中国のスーパーでの様子を思い出した。野菜などがみんな量り売りで、それを中国の人達は手で触りまくりながら、ひとつひとつ吟味して選んでいる。ちょっとその(戻された)商品は買いたくないなあと思うほどだったのだけど、ビックリすることにお肉もパッケージなしで、ずらっと並んだ中、やっぱり素手で触りまくって選んでいる。一応スーパー内に手を洗う場所はあったようだけれど、みんながみんなちゃんと洗うかどうかは(まして石けんでは)…。そして、お肉を触った手で野菜や果物を触った人がいたとして、それを知らないで買って、水洗いだけで生で食べたら…。以前、SARSがやはり中国で大流行したけれど、あれも動物からの感染だったと思う。もちろん免疫力によって、罹る罹らないや、罹っても軽く済むとかというのが変わってくると思うので、まずは普段の食生活などが大事だと思うけれど、パンデミックって、その(発生源)国の衛生観念によるところが大きいのだろうなというのが、スーパーでの中国の人達の様子を見ての正直な感想です。

1/22
規制って、安全・安心のためだったり、調和ある生活のためのものだったりすると思うけれど、される側以前に、する側が本当にそれを望んでいないと、形だけ制限しても、何も変わらないのだろうなと思う。これが望ましいことと思っても、人の目を気にしてのものだったり、こうあるべきという、いい悪いの判断からのものならば、誰の、何のための規制かよく分からなくなる。運転をしながらスマホやナビを見ることや、TVゲームやスマホを見る時間のことなど、最近は特にスマホが関わる規制が目立つようだけれど、それだけ大人も子供もスマホに依存しているということだと思う。それは規制では変わらなくて、脳の静電気が減っていくことで、自然と依存度が減っていき、少しずつスマホなどと距離ができてきて、それが普通になる、という流れなのではないかなという気がする。

1/22
調子があんまりよくない時でも、気持ちがなんとなく晴れない時でも、太陽の下散歩していると、それだけで何かが回復してきて楽になる。私の中では本当に散歩に救われているところがあると感じる。今日はとても寒くて、曇っていたけれど、少し晴れ間が出てきたので、ちょっと温かくして散歩に出ると、半分ぐらい歩いたところで雨が降ってきた。傘を持ってなかったので、びしょびしょになってしまったけれど、それでもちょっとだけでも太陽に会えると、やっぱりなんか元気になるんだな。

1/20
夜中に喉が痛くて目が覚めた。元々喉が弱くて、すぐに喉が痛くなりやすいのだけど、今回はちょっとこのままいくとひどくなってしまうかも、というぐらいの状態。とりあえず枕元にあったブラック岩塩の粒をちょっと多めに口に含んで、口の中でゆっくりと溶かしながらそのまま眠ったら、朝には痛みがほぼ消えていた。ブラック岩塩って本当にすごい。

1/19
形のない世界をふと思います。身体を持つことで経験する、痛みや病気、問題事。不安や怖れ、辛さ。本来から外れ、しなくていい経験をたくさんしてきて、今それらの原因を浄化するためにここにいるけれど、太陽も地球も生命たちも、みんな形(身体)を持つ前は、その嘘の経験全て、何もなかったんだなあとあらためて…。なんとなく、その時の太陽や地球、生命たちを想うと、そこと繋がり、そこ(本来)へ還っていける未来に触れられるようで、安心に包まれます。

1/15
身体が軽くて元気にいろいろ動けているかと思えば、急に圧がかかったかのように動きにくくなったり、自分でも良く分からない状態。日記に書こうと下書きしていたものも、ふと浮かんだ時と今では何かがもう違っていて、そのままアップできなくなったり。このところのすごいEWに、いらないものが出てきているのかもしれません。そもそも自分でいい調子と思っている時に、案外そうではなかったり、その逆もあったりと、自分で思う自分というのはあんまりあてにならないから、調子が良くてもそうでなくても、その時の自分なりに表現していけたらいいなと思います。いつでもそのまま、ありのままで。

1/10
歩んでいる中で、いろんな経験をして、体験的知識と共に、少しずつついてきた心の筋肉。それは共に歩む仲間たちもそうだと思う。どんな時も、何があっても、芯の部分に揺るぎない想いと安心感があるから、いつの頃からか、表面の部分で不安や心配が出てきているような時でも、深いところではで~んと構えていられているようになった気がする。だから、何があってもなくても、本当に全部OKだなあって。これまでの経験がすべて今に繋がり、活かされる。そのために今ここにいるんだなと、あらためて思う。

1/7
夢が嘘だと知り得たことは、とても大きなことだったように思う。少し前、夢に仲間たちが出てきた時、あるシーンで感じた不安のようなもの。現実でも何度となく、同じような状況で同じような感覚を覚えていて、目が覚めて、これが自分を含め、仲間のこともそう仕向けている存在の意思なのだと、ただ淡々と受け止めていた。ほんの一瞬だったのだけど、これまでなら、それがいつまでも変に残ってしまって、現実にも何かしら影響を与えていたような気がする。今はその夢に意味づけすることも、怖れを感じることもなく、ただ、これまでその影響下にいたことを自覚し、そして、これからはそこから離れられる道にいることを、ちょっと不思議なような、うれしいような気持ちで受け止めている。

1/7
今日は雨だけれど、一昨日はあったかくて、いいお天気で、ベランダの汚れが気になっていたのを思い切って掃除し始めたら、きれいになるのが楽しくって止まらなくなった。で、そのまま家の外回りを、塀や駐車場、家の前の道路まで、ホースとデッキブラシでゴシゴシ。気づいたら4時間経ってて、お昼食べるのも忘れて夢中になっていた。頭から顔から泥が跳ねて、ジーパンも泥だらけ。着飾ってお出かけする近所の人たちが、怪訝な顔で通り過ぎるのを見て、やっぱり変わり者だと思われてるんだろうな…と。年末に何の掃除もしないで新年早々に掃除しまくっているのは、一般的には変な人だと思う。自分としては、やりたいとき、やれるときにやっているだけなんだけど…。年末も年始もなく、普通に毎日が過ぎていくようになって、もう何年経つのだろう。世の中のいろんなことから自由になるって本当に楽だ。

1/6
世の中で言う、「成功する」というのは、富や名声を得られることとイコールなのかなと思うけれど、それがイコール幸せだとは思えない。富や名声を手にした人は、ずっとそれを手にし続けなければいけないと思い、そのために様々な犠牲を払って努力し続ける。それはとってもしんどいことだなと。多くの人達はその人に憧れ、自分もそのようになりたいと思うのかもしれないし、その多くの人達の目があるからこそ、その人はそうあり続けようとするのではと思うけれど、ということは、もしその多くの人たちの目がなければ、その人の努力は何の意味もなく、本当はその人自身もそれをやめたいのではないかなと思う。作られたイメージを保つというのは、比較・競争の世界から遠く離れ、自然体で生きている人たちにとっては理解できないことだと思うし、努力し続け、イメージを保ち続けている人が、もし、自然体でのびのびと生きている人ばかりの中に飛び込んだら、これまでの人生は何だったのだろう?とショックを受けるかもしれない。何を大切にするか、という価値観のようなものは、その環境によって案外簡単に変わってしまうのではという気がして、世間一般での成功を求める人たちが、自然体で生きる人たちに影響を受け、世の中の価値観も変わっていったら、世の中にある様々なものがいらなくなって(消えて)しまうかもしれないなと思う。

1/3
いろいろあってもなんとかなって、バタバタしてても、どこか余裕で、疲れても、けっこう元気。2019年最後のワークで、何気ない時間だったのだけど、仲間たちとの楽しく、和やかな融合空間が、自分の中でとても大事な芯の部分に元気をくれたようで、時間が経っても、静かに力強さを与え続けてくれている気がします。ここさえ元気だったら、何があっても大丈夫、と思える場所。これからは、これが普通になってくるのかな、とうれしい気持ちになります。最近は出会う風景がなんだか優しいことが多い中、今日はレジで私の番が来た途端、店員さんの咳が止まらなくなったり、苦手なのにいつも向こうから毎回挨拶してくる人が、私に気づいて避けるように手前の道で曲がったりと、いろんなことが起きています。今年はどんな年になるんだろう?


2019年の日記

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