日記

12/31
本当の太陽の光だけを受け取れたらいいな。少しでもいいから地磁気を通せたらいいな。簡単ではないことは分かってるけど、それは太陽も地球も元気になるということだと思うから、その時を楽しみに、たんたんと行こう。いらない静電気はどんどん身体(脳)から追い出して、電子機器が壊れちゃうぐらいに。(自分ちのは壊れませんように…)

12/30
いろんなことがあって、なかなか落ち着かない毎日だけれど、そんな中でも太陽の光を浴びながら元気に歩けていて、ちょっと余裕?です。昔だったら一大事!と大騒ぎしていただろうことも、もうこうなったらど~んと構えて全部受け止めてしまえ~という感じ。大人になったなあ、私。

12/27
今月は家族とのやり取りもこれまでになく密で、これまではなんとなくやり過ごしていたことも、深く関わることで、自分なりの想いを伝える機会も増え、同時に、家族それぞれのパターンのようなものもよく見えてきたような気がしている(ここまでか~と思うことも)。その中であらためて感じたことは、こうなってほしい、と強く願う時、その時点で形はどうあれ、すでにぶつかっているから、やっぱり何も動かなくて、ただこちらが消耗するだけ。でも、どちらでもいいや、という中で、ただ淡々と過ごしていると、自然と何かが動き始めて、それが具現化するのだなあということ。頭では分かっていたことも、体験する中で、やっぱりそうなんだなと。だからといって、すべてスムーズに行くかというと、そうでもないのだけど…。とにかく、2019年の12月はものすごく濃い!そして2020年も楽しみです。

12/23
毎日、かなりの肉体労働(?)が続いているのだけど、以前なら疲れてしまって動けなくなりそうな状況でも、ノンストップで動けていて、睡眠時間も普段より少ないけれど、朝、自然と早くに目が覚めて、すぐに動き出せている。でも、どこか緊張状態でもあるようで、それが身体に出ていたり。なんだかいろいろです。いつもと違う状況の中、ふと夜遅くに入ってきた情報から、変に思考が動いてしまったようで、そこから不安が出てきて、久しぶりに怖い夢を見て目が覚めた。でもそのからくりみたいなものを自分なりに把握できたみたいで、これまでこのパターンを繰り返してきたのだなあと…。色々決めること(判断・選択)があると、ついつい思考が忙しくなりがちだけれど、こういう状況でも思考を自由にさせることが、今の自分なりにできること(すべきこと)のひとつのような気がしています。

12/18
少し前、流れで、大手の照明器具メーカーに「ゼロ感性」を伝えるとともに、LED照明ではなく、従来の照明をまた作ってほしいとメールをしたら、返事が来たけれど、以前ならこうした決まりきった回答の中に感情は感じられなかったのに、今回は感情が伝わってきた。怒りとか嫌悪感のような感じ(きっと怯えなんだと思う)。「国策」という言葉をたくさん使っていて、国が決めたことだから、というのが前面にあったけれど、同時にLEDの影響については「デマを信じるな」といった感じで、お客様係がこんなに感情を顕にするんだなあ~と、LED化した人達は、ちょっと余裕がなくなっているのかもしれないと思った。そんな様子も余裕をもって観察しながら、淡々とやっていこう。

12/18
さらにこのタイミングで?というぐらい、いろんなことが一気にやってきて、以前ならそのひとつひとつが自分の中でとっても大きな出来事で、頭の中もいっぱいになって、そのこと(やらなきゃいけないことなど)を思うと憂鬱になってしまっていたと思うのだけど、なぜか今回、もうこのわちゃわちゃを楽しんでしまえ~という感じで、ちょっと楽しみながら動いている。今日も朝からいろいろ動いていて、車を運転中、ふと、楽しいなあ~と。自分の苦手な分野(難しい書類作成や手続きなど)で、プロに頼む人も多い中、なんかできるかも、と自分でやってみることにしたのも自分でも意外。今日は身近な人たちや出会った人たちもなんだか和やかで、そんな風景もちょっとうれしい。

12/14
何かを選択する時はもちろん、普段の何気ない行動でも、人はどれだけ何かがあった時のことを想定し、それを基に動いているのだろうと思う。何かがあるかもしれない、何かがあった時のために~しておく。そのための色々が頭を占領し、不必要な時間とお金、労力が費やされていく。それらは本当は要らないはずなのに、その「何か」が頭から離れない。それはとても疲れることだなと、その中にいる人を見て思うけれど、ずっと自分自身もそのど真ん中にいた。今もまだその中にいるかもしれないけれど、少しずつ離れてきて、その思考も自分の考えというより、誰かの考えや世の中の常識をそのままよしとしていたんだなと。それが少しずつ剥がれて、その分心が自由になる。何か解放されたような気持ち。良く分からないけれど、ワクワクする。もっと自由でいいんだな。

12/13
子供の頃からよく夢を見て、とても多かったのは何かと戦ってて、朝起きるととても疲れてしまっている夢だったけど、それ以外は自分が気になっていることや(遅れちゃいけないと思う遠足などの前日には必ず、遅刻して、必死に走ってもたどり着けない夢を見たり)、日中見聞きした人や出来事などがそのまま出てくることも多くて、自分はなんて単純な人間なんだろうって思っていた。「夢と思考」がアップされて以来、あまりはっきりとした夢を見なくなっていたけれど、昨日いろいろとやらなきゃいけないことが頭にあるままの状態でベッドに入り、ウトウトしかかった時、思考から夢に移行する瞬間にハッとなった。思考にあることがそのまま夢になりかけたのが分かり、一瞬、こうして日常の出来事が夢に反映されるのかと思ったのだけど、そうだ、夢も思考も同じだったと。夢に支配されている脳は、簡単に思考を操られ、自分の意思のようで、操られた思考で日々判断したり、その思考を元に感情が動いたり。「夢と思考」によって、夢というものに対する認識が変わってきた今、自分の中の嘘の思考が少しずつでも外れてくれたらいいなと思う。

12/12
夜中にも暑くて目が覚めたりしたけれど、今日は特に暖かくて、朝から半袖でも全然平気。風がちょっと強かったけれど、雲一つない青空でとっても気持ちいい天気。歩いていて、今は何月なんだろう?感覚的には4月か10月のような…と。もう季節の感覚がどんどん変わってしまっているみたい。このところ、カラスがまた集まってきて、うるさく鳴いているけれど、そんなの全然気にならないといった感じで、すぐそばの水たまりでスズメたちが水浴びをしていて、そののんびりした感じがなんかいいなあって。
昨日、あまり通らない道端で、オーガニックの国産レモンが3個100円で売っていたので、6個買って、ブラック岩塩で皮を洗って、スライスしててんさい糖で漬けてみた。炭酸水で割って飲んだら、ほんのり甘酸っぱくておいしい。忙しくなると、気持ちにも余裕がなくなるけれど、こういう時間ってやっぱり大事だなあと、ちょっとひと息ついて自分のペースに戻れた感じ。

12/9
LEDに囲まれた空間で1日中過ごした。そこでのLEDと一体化した人たちとのやり取りの時間はまるで異次元のよう。そこにあるのは、損得だけの世界。それ以外の価値基準は想像もできないようで、いかに得をするか(得をさせることで恩に着せる)ということで全ての物事が進んでいく。表面的には穏やかに和やかに、でも、それぞれが大事にしているものは決して重なることはなくて、身体のダメージは寝るまで続いたけれど、今朝になったらすっかり元気。今朝はすごく寒いというから、さすがに半袖は無理かなと思ったけれど、太陽の温かさに、羽織っていた薄いシャツをすぐに脱いで、5分袖をちょっとめくって、やっぱり腕に風が気持ちいい。

12/5
ちょっと前までは、まだ少しとはいえあった、LEDではない照明器具も、蛍光灯も、今は本当に探してもなかなかないという、ビックリな状況になっている。(ホームセンターなどではゼロ)特に、シーリングライトなどは、多分ほとんどなくなってしまっているような。先日、電気店に行ったときも、LED一体型のライト(スタンドなど)が増えていて、電球と付け替えることさえできなくなっていて、ここまで…と、あらためて今の状況を知った感じ。でも、逆に考えると、LED最高潮の今は、それをひっくり返すにも最高のタイミングなのだと、今という時の大切さを思う。このところ、慌ただしいけれど、ふと感じるまま、「ゼロ感性」に動いてもらう。

12/5
このところ、色々な人と関わることが多くて、その中で、人の作り上げてきた嘘が透けて見えるなと感じることがある。本音と建て前、保身のためのごまかしなど、分からないと思ってうわべだけを整えるその様子に、それはもう通用しないよと、冷静に観察している自分がいる。バレてしまった、というような怯えや抵抗も見え、そうまでして守り続けてきた嘘ももう、崩れ始めていることを感じ、さらっとそこを通り抜けていけるような、どこか余裕を感じられる今。

12/2
20年前、ほんの3年後ぐらいにMEに出会うことはもちろん、その後の歩みのことなんて、想像もできなかった。15年前も、10年前の自分は想像ができず、5年前に今を想像することもできなかった。いつもその時その時をただ歩んでいて、いろんなことがあったようだけれど、それもさらっと通り過ぎていった気がする。今も自分を取り巻く環境が変わったり、それに伴ういろいろな動きがあって、それがこれからにどう影響するのか分からないけれど、どんな時もその時々を淡々と歩んでいけたらと思う。自分の個人的なことなんて、大きいところから見たら取るに足りないこと。だけど、そんな小さなところでも、どんな自分でいるかが全体に影響するなら、やっぱり日常生活のひとつひとつも大事だなあって。大きい流れに連動しつつ、せっかくだから目の前のことも楽しんでやっていこう。



11/29
朝、窓を開けると2羽のすずめが目の前にいて、しばらくその場でちょこちょこと動き回っている。最近、晴れた日には窓を開けると目の前にその(多分同じ)2羽がいてくれて、その動きを見ているだけで、なんだかうれしくなる。今日は朝の気温は一ケタだったけど、それでも太陽が出ていると、やっぱり暑くなってきて、歩いている途中で羽織っていたカーディガンを脱いだ。腕に当たる太陽の光が気持ちよくて、それだけでやっぱりうれしくなる。なんでもないことだけど、そのちょっとしたうれしくなる感じのまま過ごせれば、問題事なんて何もないのかもしれないと思う。そのうれしい感じを遮ってしまうのが、きっと思考を使わせようとする意思。でも、以前なら一体化していたその意思を、少し離れたところから見られるようになったような気がして、ある時ふと、人にいろんな否定感情を持たせ、そのことで自分を責めさせたりするなんて、とんでもないなあと、自分や誰かではない、その意思そのものに意識が向いたら、ちょっとまた何か見えるものが変わった気がする。身近なところでまた状況が変わったりして、いろいろ選択しなければいけないこともあるけれど、感じるままでいられたらなと思う。

11/28
大阪で、前日より気温が急激に下がると予報があった日、朝、ひとりで外を歩いていたら、ほんの20~30分ぐらいの間に、「うそ~」「え~」など、4人の人から反応されてしまった。最後には(5人目)指をさして、「半袖やん!」。黒っぽいコートの人達の中で、ピンクの半袖はものすごく目立ってしまったみたいで…。東京では内心えっ⁉と思っても、表面的には普通を装っているか、コソコソ小声で言うぐらいで、直接的に反応するということはほとんどない気がする。実際、東京からの帰りの電車の中でも、やっぱり黒っぽい人たちの中で、ピンクの半袖は私だけだったけど、誰も何も言わなかった。でも、直接言わなくても、心の中ではきっと違和感を感じているのだろうと思うと、平静を装っている分、溜め込みがすごいというか、もしかしたら、差別心などが根深くあるのかもしれないなという気がする。

11/27
自分にとって楽にできること、得意なことと、人のそれはもちろん違って、だからそれぞれが自分の楽にできることや得意なことを普通にやれれば、それだけで全体の一部分としての仕事ができるのかなと思う。ただ、時に厳しくても、その人にしかできないことっていうのもある。だから、自分なりに自分しかできないことをする。やっていること、できることは違っても、みんなが想う風景はきっと同じ。それは多分、太陽や地球の元気や笑顔が見られる未来の風景。

11/22
人は文化や伝統という言葉によって、本来不必要なことを正当化し、必要であるかのように思わせてしまうことがあるのだなと思う。捕鯨を文化とし、クジラのお肉を食べることを伝統と呼ぶ人たち。今回、クジラの体内に蓄積された水銀が、そのお肉を食べた子供たちの健康に影響があるかどうかを調べたところ、全国の値より高かったにも関わらず、明らかな影響はないとして、これまで通り安心して食べられると言っているようだけれど、そこまでしてクジラを食べることにこだわるのはなぜだろう。祭りや伝統芸能と呼ばれるものもそうだけれど、それを途絶えさせないためにという執着のようなものが、伝統や文化と呼ばれるものには結構ある気がして、そのために犠牲になっているものは多いのではと思う。「守る」という言葉もいろいろで、温かな想いの包み込むような「守る」もあれば、そこから外れることは決して許さないというような、執念を感じる「守る」もあるように思う。前者のような「守る」が増え、後者のような「守る」がなくなっていけば、この国のジメジメした空気感もずいぶん変わって、こだわりや執着もなく、自由で軽やかな空気感が生まれるのではという気がするのだけど。

11/19
11月の後半になっても(冷える)1階の部屋で暖房もつけず、半袖のまま寝ているということは、これまでになかったことだけど、さらに昨日は夜中から明け方まで、暑くて何度も目が覚めて布団をはねてしまうほど。今朝起きたら家族も同じようなことを言っていて、気づくと布団がなかったと。今日も朝方はまだ道路が濡れていたけれど、散歩に行くと内側からぐんぐん熱くなってきて、太陽も元気に顔を出してくれた。このところまたブラック岩塩の消費量が増えていて、そのせいか、お弁当の支度をしていても、ちょっと味見をしただけで(ブラック岩塩が身体に入っただけで)、汗が出てきて、思わず「暑い~」。
理由のない悲しい気持ちも、覆われてしまうような感覚も、全部嘘だから、そこに飲み込まれてしまうことはないし、不調が出てきても、お構いなしに身体は動いて、動くと元気に身体の中で何かが循環する。その身体の感覚のままにいれば、滞ることはないのかもしれない。

11/15
「普通」という言葉の中身は、誰が使うかによって、全く違ってくる。その状況や立場によっても変わってくるし、これまでその人が生きてきた中での価値観によって、それぞれその人なりの普通がある。ある人にとっての普通は、別の人にとっては異常かもしれなくて、とすると、普通って何だろうってことになると思うのだけど、ひとつだけ思うのは、生命本来の普通に対し、そうでない人は本能的に反応し、生命本来が力強くなることを怖れ、それを遠ざけようとするのだということ。生命本来は太陽や地球本来と同じだから、そうでない人達は、暑いぐらいの太陽の光にも、寒気(静電気)を溜め込み、厚着をすることで抵抗し、(ブラック)岩塩も異常と感じ、海の塩を普通と思う。LEDを多用した新しいものを好み、その原因と密に融合しようとする。人によっては真逆になってしまう普通という言葉。その普通の中身によって、その人がどういう原因を生きているかが顕わになる。

11/14
自分の好きな人が不幸になることは普通は望まないはずなのに、その人の幸せを素直に喜べないばかりか、怒りを顕わにするというのはどういう感覚なのだろう?可愛さ余って憎さ百倍、って、結局は愛情ではなく執着なのではと思う。アイドルをはじめ、芸能人がファンのことを思ってなかなか結婚しないとか、交際をひた隠しにするとか、普通なら子供がいても全然おかしくない年齢でもそうさせられてしまうのは、芸能人を一人の人として応援できないファンや、そのことで人気がなくなることを懸念する事務所など、歪んだ感覚の人達に囲まれ、そこへお金が絡んで身動きが取れなくなってしまうということなのかも。夢を見たいのは分からなくはないけれど、自分が代わりに結婚できるわけではないし、芸能人が結婚してもしなくても、プライベートも含めて応援してあげられる人たちが増えれば、芸能人の人達も不安からいろいろ動きを隠したり制限したりする必要もなくなり、全体的に(発言も行動も)自由でおおらかになるような気がするのだけど。

11/13
日中は半袖でも全然寒くなく、散歩をしたり、庭の掃除をしたり。お風呂上がりには暖房なしでもしばらくタンクトップでいられることにちょっとびっくりするぐらい。少し代謝がよくなってきたのかな。でも、夜寝る前にワークで教わった処方箋をしながら寝ようとすると、急に寒気がしてなかなか眠れない。と思うと、朝方、内側からカ~ッと熱が発生している感じで、暑くて目が覚める。ワーク後そんな感じが続いている。
ふと目に留まった、LEDをお勧めするような文章を書いていた記者の方に、「ゼロ感性」のことをメールで伝えた時、その力の入らなさに自分でちょっと戸惑ったほど、以前とは違った感じで伝えられていた。先日フォトブックとゼロ感性が流れた時もそうだったけれど、自分から行くというより、その機会が目の前にやってきて、じゃあ、という感じでさらっと流れていった感じ。力の抜けた今だからこそ、伝わるものがあるかもしれない。

11/11
話の内容以前に、その融合空間にいること、そこで過ごす時間が大事だったのかな、と思う時があって、それはワーク空間もそうなのかな。たくさん伝えてもらったことを一生けん命に記憶(記録)に残そうとするより、その融合空間にいて、不要に思考を働かせない時間を過ごすこと。きっとそのポイントは人それぞれ違っても、必要なことは自分の中に溶けていて、ふとした時にそれが自然と生かされる。分からないことはたくさんあるけど、今はただ、これまで歩んできた中で自分の中に溶けているものを生かせる自分でいたい。そして、いろいろあっても、それぞれの中にあるもの(芯、真)は決して埋もれたままではなく、覆われたものを振り払って本来の力を取り戻す、その道の途中にいることを感じるから、深い信頼と安心感の中、大きな流れにお任せしつつ、自分なりにできることをやっていこう。

11/9
雑貨のお店を見てみると、クリスマスも通り越してお正月準備ということなのか、真っ先に目に飛び込んできたのが、神棚や盛り塩用の器、漆塗りの朱色の器など。こんなものを特集して、みんなが見るのだろうか、と思っていたら、結構足を止めて見ていく人たちが多い。盛り塩は当然海の塩だし、そのそばには加湿器のコーナー。いくつもの加湿器から蒸気が出ている。少し行くと冷え解消コーナーにアクリル100%の商品が並ぶ。その先には静電気対策コーナー。その他の雑貨も「冬色」ということなのか、全体的に黒やグレーばかり。なんだか笑ってしまった。こうやって、表面上は対策をしたりしていても、結局多くの人達は静電気を溜め込むことを、季節を区切りながら(意識しながら)続けてきているのだなって。女性向けに乾燥対策と、保湿ということがアピールされるけれど、湿度の高さによる動きにくさを体験していると、このところの乾燥した空気は爽やかな気候に思えるし、太陽が照らしてくれていると、今が何月なのかなんて意識しなくなるほど過ごしやすい。みんなが黒っぽい服装の中、黄色のTシャツを着て颯爽と歩いた。風がとっても気持ちよかった。

11/7
大事なことを大事にするためなら、時に形としてのぶつかりはあってもいいと思う。自分の想いを伝えても、返ってくるものが否定感情なら、それは仕方がないけど、世の中の常識に流されてしまうより、自分が大事にしていることを言葉や行動にする。それが形としてぶつかっていることになったとしても、自分の中に余裕があって、後に残らなければ、さらっと次へ行けて、それは新たな原因になる。そのことで変わるもの、変わらないもの。いろいろあっても、自分の想いを大事にしながら、ただ淡々と歩むべき道を行く。

11/5
今日の太陽はひときわまぶしくて、半袖で車に乗ったら暑くてエアコンをつけるほど。出先でも速足で歩いていたら汗が出てきて、顔や腕が日焼けしそうだったし、厚手のコートやダウンを着ている人は暑くないのだろうかと不思議に思っていた。そばを歩いていた人たちが、「もっと着込んできたらよかった」と言った瞬間、私が追い抜いて、お互いちょっと気まずい空気。たくさんの人の中にいて、なんだか不思議な感覚がして、自分のいる空間と、周りの人たちがいる空間が、同じ場所にあってもどこか違っているような。重なっているような、いないような…。よく分からないけれど、もしかしたらそれは、不必要な融合をしないでいられた瞬間だったのかも、なんて。そんな瞬間が増えていくといいな。

11/4
仲間たちの日記がなんだか力強くなっていて、読んでいるとうれしくなる。身近なところで、なぜそんなことを…と、そのことで心が揺れかけたけれど、同時にもう振り回されない、という力強さのようなものも自分の中から湧いてきた。そこに入り込まず、少し距離を置いてみることができたようで、少しずつでも芯がしっかりしてきたのならうれしい。
今日も散歩をしていると暑いぐらいだったけれど、灯油販売の車が来ているのを見て、そうか、もう11月なんだなと。以前は(この辺りは朝晩はとても寒いので)10月末になると、灯油を買っていたのを思い出した。今年はまだ灯油は要らなさそう。(厚着をしている家族はストーブつけたいと思っているかも)ただ、暑いかと思うと、時々気温に関係なく、内側から寒気が出てくる時がある。いらないものはどんどん出していかないと。

11/3
思い切った切り離しも、いつの間にか縁遠くなったものも、どちらもあったし、これからもあると思う。人間関係や、いろんなモノ。半ば強制的に思えた時でも、結局は自身で選択してきたこと。だからこれからもいろんな選択が自分の変化と共に変わっていくんだなと思うし、それでいいんだなって思う。そこに不安や怖れがなくて、その選択によって、どこかが楽になる感覚。それが感じられたらよりうれしい。

11/1
元々色素が薄く、髪も目も色が薄め。赤ちゃんの頃の写真を見ると、金髪に近い茶色で、子供の頃も今よりずっと明るい茶色の髪だった。その色自体は気に入っていたけれど、そのせいで、当時は結構目立ってしまい、しなくていい思いもしたりした。その中で感じたことは、髪が黒いことが普通で、そうでないことは不真面目(不良)だという決めつけや、他の人と違うことへの嫌悪感や抑え込みのようなもの。(学校によっては、天然であるという親の証明書が必要だったり、天然であっても黒に染めさせられる場合も)そのせいで、目立たないように意識していた時期もあるけれど、それも不自然だったなと思う。
黒い色を好む人たちの理由は(表向きは)いろいろだけれど、冠婚葬祭や学生服、ビジネスマン(就活服)、その他のファッションでも、黒であることに安心しつつ、生命たちの動きを止める力を保ち続けているのだなと、その数の力で黒が常識のようになってしまっているあれこれを思う。



10/30
スポーツの中には、もはや格闘技ではないのかと思うような、荒々しいものがあるなと思う。試合前に相手を挑発し合い、相手と自らの闘争心を煽ることで、勝つことへの執念のようなものを保ち続けているような…。その奥には、かつての命の奪い合いがあたり前にあった歴史の記憶が刻まれているような気がして、格闘技はもちろん、そう感じてしまうような競技にはどうも近づけない感じがする。
それと、武道だけでなく、意外にも、華道、茶道、書道などの、一見戦いとは関係のない「道」のつくものも、元を辿ると、人の命を奪うという過去の歴史と深い関わりがあるのではないかなという気がする。静かで高尚なイメージもあるけれど、形式を重んじるものには、どれも人の動きを止めてしまう力がある気がして、やっぱり苦手。あと、かるたの競技も結構激しくて、ちょっと怖い。執念というのは、思うだけで相手の力を弱らせ、自分を優位に立たせる力があるような気がするから、そういうところから遠く離れて、ただ純粋にその競技(ゲーム)を楽しめる人が増えれば、スポーツや様々な趣味の世界なんかも、もっと空気感が変わってくるのではないかなと思う。

10/28
天気は良くても、畑は道路とほぼ同じ位置まで水が溜まっていて、まるで湖みたいだし、道路も冠水。車が畑に落ちていたり、あちこち放置されていたりと、この辺りはまた結構被害が大きかったようで、農家さんたちはもちろん、かなりの人達にとって、この9月から大変な状態が続いていると思うけれど、LEDがここまで広がってしまったという本来あり得ない状態を修正するには、自然も人も巻き込んで(参加して)の大規模な工事(?)を行わなければいけないのだろうな、と、どこか静かにこの状況を眺めている感じがする。いろんなことがあるけれど、もうすぐ11月だというのに、まだ半袖で散歩したり、家事をしたりと動けて、ご飯もちゃんと食べられて、まあまあ眠れて、それで充分。

10/25
どれだけ台風(豪雨)に好かれているんだろう…?また、記録的短時間大雨とのことで、ニュースになり、1日のうちに、気にかけて(想いを向けて)もらうことと、親切(心配)の押し売りということの両方を体験した。さりげなく気にかけてもらえる時、そこに心配はなく、やり取りもさらっとしていて、こちらの気持ちも楽。うれしい、ありがたいな、しかない。でも、後者は人を思いやっているようで、最初から最後まで自分のことしかなく、いかに自分が心配しているかや、いつもあなたのことを考えている、だから感謝するように、と、相手の気持ち(や都合)はお構いなしに、繰り返し自分の形ばかりの優しさを押し付けてくる。一応、親切で言ってくれているので、お礼もたくさん言って、話もちゃんと聞いて…。でも、身体の反応はすごくて、しばらくダメージが残るほど。これまで交流がなかったのに、前回の台風からなにかロックオンされてしまったように、とても意識されてしまっている。そこに別の人たちも絡んで、共同作業されているような…。昔は優しそうな人、というイメージだったけれど、そうではなかったということは、身体の反応が正直に教えてくれている。(早く嫌われなきゃ。。。)

10/24
昨日あたりから、部屋がとてもカラッと乾燥している感じがして、湿度計を見ると50~60%台だったりする。以前は70%近くになると、もう部屋中がなんとも重たい感じがしていたのに、湿気の中身も変わってきたのだろうか。

10/23
気持ちのいいお天気。それだけでうれしくて、朝からいろいろと動けてしまう。ちょっと動くと暑くなるので、半袖で家事をしたり、散歩したり。昨日は肌寒かったけれど、お風呂上りにはやっぱり暑くて半袖で過ごしていると、お風呂から出たばかりの家族が、パジャマの上に厚手のカーディガンをはおり、さらに綿入り(ダウン風)のベストを着ていたのでビックリ。静電気が減ってきているのは、このところの我が家の湿度が以前より下がってきているのからも感じていたけれど、そのことで過ごしやすくなる人、そうではなくなる人。近所の様子を含め、様々な風景が見られる今。これからの風景が楽しみ。

10/22
なぜ?かは考えても分からないから、その時々の自分の感覚や反応に正直でいよう。感覚も反応も、感じたこと、反応したことは事実。でもそのことをなぜだろう?と思い始めた時から思考が働き始めて、物事をややこしくしてしまう。頭空っぽにして、そこからすっと離れられたらいい。思考が働いている時は自分のことしか考えていないというようなお話が以前ワークであったけれど、本当にそうだなと思う。自分の病みであっても、ジャマであっても、本来なくてもいいものがあれば、なくしていくだけ。

10/21
市役所へ行って、窓口で順番待ちをしていると、手の空いている様子の職員の男の人がカウンター越しに近づいてきて、無言&無表情でじ~っとこちらの顔を見てくるので、えっと思いながら用件を言うと、無言で立ち去っていきました。ちゃんと用件は伝わっていて、少しすると、別の人が対応してくれたのですが、市役所でこういう応対のされ方は初めてで、ちょっとびっくりしたけれど、そういえば似たような感じの人は身近なところでも増えているような気がします。愛想笑いも、過度の丁寧な接客も必要ないのだけれど、これまで「普通」を演じることができた人たちが、静電気切れで取り繕うことができなくなっているのかなと、ワークでのお話をふと思い出しました。

10/19
小学生の頃、特に仲がいいわけでもないクラスメイトから誕生日プレゼントをもらったことがあって、それも一輪挿しか何か、全然欲しいものでもなく、ただくれたからもらった、というような意識だった気がします。その子の誕生日がいつかも知らなかったのだけど、ある日、友達数人からとても責められて分かりました。その日が、そのプレゼントをくれた子の誕生日だったようで、自分はプレゼントしたのに、お返しのプレゼントをくれなかったと、相手の子がとても怒っていたそう。あ、そうかと思って、慌ててプレゼントを買って翌日に渡したのだけど、その時とても変だなあと思った記憶があります。 仲良し同士で、お互いに相手にプレゼントしたいという気持ちがあって送り合うのは分かるけど、自分の誕生日にたくさんのプレゼントをもらいたいからと、仲がいいわけでもない子の誕生日に適当にプレゼントする。お互いに気持ちはないのに…。もしかしたらその子は周りの子たちとプレゼントの数を競っていたのかもしれない。でも、お返しを期待して、そのために相手が喜ぶかどうかも関係なくプレゼントするのって、何の意味があるのだろう。当時、そんな違和感を抱いていたような気がします。(私は多分、周りから見たら、ちょっとズレた子供だったのだと思います。)似たようなことは他にもあって、お誕生会に呼ばれたから呼ばなきゃとか、年賀状も住所を聞き合って、送られたら送るとか。そういうのは大人になってからも続いていき、そこから外れると非常識な人になってしまうのでしょう。でも、形だけで心が伴っていない付き合いを続けていくことは、様々な否定感情を伴った価値観の中に巻き込まれることのようで、だったら非常識と思われて、期待もされず、そこから離れる方がずっと心身共に健康でいられるように思うのです。

10/18
人生山あり谷あり。でも本当は、人が生きるのに山も谷もいらなくて、優越心や所有欲を満たされて感じる「山」も、本来ないはずの病気や問題事などで苦しんだり悲しんだりする「谷」も、みんな非生命的な意思による自作自演。嘘の価値観に感情やエネルギーを消耗させられながらも、少しずつその影響から自由になり、淡々と歩むべき道をゆく。宇宙の中心、太陽系(地球)の中心。そこに自身の中心を少しでも重ねられるよう、淡々と。

10/15
思考を使わない、っていうことを頭で捉えようとすると、余計思考を使ってしまうのかもしれなくて、でも、何も考えず無意識に動いてしまっていた時、後からその理由に納得できる、ということが時々あって、「ああ、この感じ」と…。人は、本当は思考を使わなくても生活できて、思考を使わなければ、誰ともぶつかることもなく、平和で健康に生きていけるのだろうな。

10/13
台風一過。空がめちゃめちゃ青い!

10/12
想いを重ねあって、一緒に歩んでいる。そのことがうれしくて、どんな時も安心の中にいられる。少しでも、地球や太陽が喜んでくれるような、そんな原因を生きたい。

10/8
台風の被害にあってから、ちょうど1ヶ月。またさらに大きな台風が3連休にやってくるというので、このあたりの人達はみんな不安に思っているよう。今日もすごい風で、そのせいか、会話は自然と台風のことになる。自分の家の被害、近所の家の話、今度来る台風で、さらにまた被害があるのでは…。仕事でやってきた人も、用事そっちのけで開口一番、台風の話が止まらない。そんな中で、自然と「LEDの影響」のフォトブックが流れ、「ゼロ感性」を見てもらう機会ができる。そこからしばらくLEDの話になると、やっぱり誰もが「知らなかった」という。知らなかったのは仕方ないけど、でも、きっとその先が大事で、知った自分がどうするか、というところだと思う。今日話した人は多くを伝えないうちに、「換えてしまったところがあるので、元に戻します!」と言っていたけれど、そこから先に流れるかどうかは、その人が本当はどう感じているのかというところが大きいような気がする。電柱や樹木が倒れ、停電や通行止めになったり、家が壊れたり、道路が陥没したり…。それらは自分の家の照明を換えるだけではどうにもならなくて、みんながLEDの悪影響を知り、そのことを問題として、これ以上同じ繰り返しをしないように、新たな選択(すべてのLEDを外す)をすることのように思う。

10/7
どこにも猫はいると思うけれど、うちの近所には猫が何匹いるんだろう?というぐらい、たくさん飼っている家があります。ここ1~2ヶ月特に感じていたことだけど、以前ならかわいらしい感じで近くに寄ってきていた猫たちが、身動きもせず、私が通り過ぎるまで、じ~っとこっちを睨みつけているということが続いています。すごい顔だなあと思いながらいつも通り過ぎていたのだけど、先日、犬の散歩をしていて、同じように怖い顔をした猫の横を通り過ぎようとしたら、後ろから、別の猫がうちの犬に襲い掛かってきてビックリ。小型犬なので、確かに大きさとしてはそんなに違わないのだけど…。驚いて逃げた(よけた)うちの犬に対して、逃げもせず、まだその場で隙あらば襲おうとしている様子だったので、犬と猫の間に立ったけれど、それでも動かないので1歩前に出ると、ようやく逃げていきました。猫のその凶暴さは、もう隠せなくなってきているのかもしれません。

10/5
うまく言えないのだけど、なんとなく自分の中でキープしたいものがあって、それはペースだったり、感覚だったり、状態だったり…。それが、何かのきっかけで崩れそうになることがあるのだけど、それは現実として何かがあるというより、意外にも(?)誰かの思考や感情であることの方が多いのかなと。だからといって、誰かのせいにするわけにはいかないのだけど、なんとなくそのことを感じると、周りにどういう人がいるかなど、環境ってやっぱり大事だなという気がします。同時に、引っ張られない自分でいることも大事で、私の場合は表現することで自分のペースや状態をキープできているようなところがあるのかなと思います。それとやっぱり歩くこと。何も考えず歩いていると、余計なものが振り払われる感じがしたり、反対に何かがふと浮かんだり、自分にとってはとても大事な時間のような気がします。

10/2
中国で、国にとって都合の悪いものを隠したり、なかったことにしたりと、政府や社会主義に反するものを排除する動きがニュースになっているけれど、この国でも、国や大企業をはじめ、非LED化が進んでは困る存在にとって都合の悪い事実がずっと隠され、無視され続けている。この国の不思議な様子はどこかの国でニュースにならないのだろうか。

10/2
ヨガはやったことないし、知識もないのだけど、ホットヨガというのは、確か高温多湿の中で、水を飲みながら、たくさん汗をかくというものだったような…。デトックス効果を狙っているようなのだけど、無理に汗をかくというのも、水分と共に一気にいろんなミネラル分も失われてしまうと思うので、水を飲むだけというのは危険な気がする(岩塩を一緒に摂ればいいかもしれないけど)。サウナも同様で、倒れた人はけっこういるのでは。そして、湿度がすごい中では、デトックスというより、静電気をひたすら溜め込んでいるような気がするのだけど…それで元気になる人と、そうでない人がいるということかな。

10/1
昨日あたりから、外を歩いていると、空が軽いな~と感じて、なんとなく呼吸がしやすい感じがしています。空が軽い、って変な表現だけど、空を見上げていると、なんだか軽いなあって。空気の質がちょっと違ってきているのかなという気がします。
自分は世の中のこともよく分からないので、自分の体験や、たまたま見聞きしたことなどで感じたことを自分なりに言葉にしているけれど、それが全く的外れかもしれないし、異論、反論もたくさんあるかもしれない(それは当然のことだと思う)。自分の感覚も全くあてにならないし。自分自身も明日には全く逆のことを思っているかもしれなくて…。
それでも、空が軽くて気持ちいいな、とか、うれしいな、とかっていうふうに感じたことは、確かに感じたことで、それがあってるか間違ってるかは分からないけど、その時その時で感じたことを表現していくしかできないから、止まらずに、ただ表現しながら歩み続けよう、そんなことを思いました。今日から10月。



9/30
科学の発展って、本当は必要のないものなのかもしれないなと思う。近年は、日本人の科学者(の卵)が減ってきているらしいけれど、それに危機感を覚える必要もないような。科学者たちが研究をする際、ノーベル賞というものが意識されるのではと思うけれど、個人的には、ノーベル賞そのものの必要性というところもどうなんだろう、と。ノーベル賞関わりの人たちによって生み出されたものには、経済の発展や技術の進歩など、人の役に立つもの、というのが前提としてあるけれど、同時に、これさえなければ…という側面を持っているものや、これ以上その研究を進めない方がいいのではと思うものも多い気がする。その代表がダイナマイト。建築(工事)現場などではその効率を上げるのに役立っているかもしれないけれど、日露戦争など、戦争に大量に使われたり、今あるプラスチック爆薬などの発明に繋がり、事件や事故で一度に多くの命が失われていることを思うと、ノーベルの功罪って…と思ってしまう。そして、LED。今の地球にとって、この先どれだけ破壊が進んでしまうのだろうという部分では、ある意味、ダイナマイト以上だと思う。ダイナマイトは場所が限定されるけれど、LEDは、家電などのスイッチ部分などについている赤や緑のランプなどを含めれば、入り込んでいない家庭はないに等しいのではと思うぐらい広がってしまっている。その光をきつく感じて体調を崩す人と、そうでない人がいて、そうでない人の方が圧倒的に多いので、なかなかその危険性が一般に広まらないけれど、建物や道路など、ありとあらゆるものがものすごいスピードで劣化し、壊れていく様子を見れば、決してこのままにしておけないものだということは誰もが分かると思う…のだけど、LEDを含め、いろんなものの発明には、ものすごい額のお金が動いていると思うと、命や健康よりお金が優先されてしまうのかな。とはいえ、文明社会に生き、その恩恵を受けながら生活している自分がいるわけで、発明されたものすべてを否定することはできない。ただ、今あるもので充分なはずなのに、もっともっとと欲張ってしまうと、知らないうちに発展への道のはずが、破壊への道に繋がってしまう危険もあることは、LEDがそのいい例として教えてくれているのではという気がする。

9/27
何か、原因が分からないことがあると、人は納得できる理由を探してしまいがちなのかもしれない。散歩をしていても、車を走らせていても、至る所に見られる、無残に折れた木々。ある林では、風景が違って見えるほど。その原因は、この辺り特有の杉の8割程が病気にかかって弱ってしまい、強風に耐えられなかったから、ということで落ち着いているよう。でも、なぜそんなに多くの木々が病気にかかってしまったのか、というところには誰も疑問を感じていないのかもしれない。簡単に折れるほど弱ってしまったり、根がしっかり張れずに倒れてしまったり、病原菌の繁殖を含め、微生物の世界がLEDによって侵されてしまったことは、以前とは違い、LED一色になりつつある今の風景を見れば明らかだし、その様子も映像として記録されている。自然災害だからしょうがないよね、木が病気になったのだから仕方ない、と言えば誰も責任を負わなくていいのかもしれないけれど、本当はLEDを作った人たち、LEDを普及させた人たち、LEDを使っている人たち、そしてそれを傍観している人たち、みんなに責任はあるのではないかなと思う。

9/25
毎年夏の終わりごろになると、早くも秋物の洋服が売られているけれど、どうしていつも地味~な色合いになってしまうのだろう。秋=アースカラーというのが何か決まりにでもなっているかのような。そして、感覚的には、夏物はまだコットン素材のものがあったように思うのだけど、秋冬物になると、カーディガンやストールなども、ポリエステルやアクリル100%のものなどが増えてきて、静電気がより起こりやすい素材を使っていることも不思議。それでいて、冬になると静電気対策として、手首につけるリングだったり、キーホルダーなどのグッズが売られていて、まるでそれらの業界が協力して静電気を起こしやすくしては、対策としての商品を売る、という図式があるかのよう。ちょっと考えすぎかとも思ったけれど、LED照明やスマホなどについても、ほぼそれしか選択肢がないぐらい普及させておいて、ブルーライトカットの商品を売っているなあと。案外いろんなところで繋がっていて、選択肢をなくさせ、みんなで自作自演をしながら、必要のないものを必要とさせているのかもしれない。

9/23
どこかで大きな災害が起きると、どうやら「不謹慎」という言葉が一部の人たちの間でやたらと意識され、使われるようになっているようです。SNSなどでも、笑顔の写真や、楽しんでいる様子の人に対して、災害で苦しんでいる人たちがいるのに不謹慎だとバッシングする人達がいるようですが、個人的にはそうは思いません。東日本大震災の時、テレビはずっと震災についての特番で、ACジャパンのCMが繰り返し流れていたのが記憶にあります。各企業は、スポンサーになっている通常の番組が流れないからという理由以上に、自粛をしたということなのだと思うのですが、余震が続く中、延々と続く通常と違う空気のCMに、さらに気分が重くなったというか、今は非常時なんだということをより意識させられたような気がします。むしろ、震災のことばかりの中で、普通のCMがあった方がちょっとホッとしたのではないかなと、当時を振り返って思います。
今回も養護学校(停電していないエリア)の生徒が水遊びをしていたところ、まだ停電・断水のところがあるのにということで、千葉市に「不謹慎」という指摘が入ったそうですが、なんとも心が狭いなあと思ってしまいました。大変な思いをしている人がいたら、そうでない環境の人も同じように何かを我慢しなければいけないのだろうか。でも、多分不謹慎と言っている人は、他の人の、目に留まった部分を攻撃しつつ、見えないところでは自分も何かを楽しんでいたり、電気や水を普通に使ったりしているのではないのかなと。「楽しむお金があったら、それを寄付に回せ」という人も、自分自身は寄付をしているのだろうか、とも思います。事が起きた時、何かにつけて他人を攻撃する人は、本当にそれが不謹慎と思っているというより、その状況を、誰かを攻撃する機会として利用しているだけのようにも思えます。普通に生活できる人は普通に生活するのがあたり前だし、寄付も人に強制されてするものじゃないはず。
被害にあった人たちの心情を想う気持ちは大切でも、だからといってみんながお葬式みたいな暗い空気を装ったり、楽しい様子を表に出せないなんて、とても不自然だと思います。むしろ、元気な人たちの様子を見て、被災した人たちも元気になれる、そんな流れの方が自然なのではないかなという気がします。

9/22
特に運動しています、と言えるようなものはないのですが、ほぼ毎日歩くのだけは、もう長い間の習慣になっています。痛みや違和感があると、腕や脚の可動域が狭くなってしまったり、痛い箇所をかばって歩くため、左右のバランスが悪くなって、変なところに力が入ってしまったり。その期間が長くなると、歩き方に変な癖がついたり、それがさらに身体の歪みを引き起こしたりと、歩くことひとつをとってもいろんなことが分かります。普段意識しないとその癖は出やすいのですが、時間に余裕のある時、散歩の時は、できるだけ姿勢よく歩くことを心がけています。それでも、私の場合は右足だけ外側体重になりがちで、股関節に左右差があるのを感じます。歩くことって、基本的な動きなので、歩きやすさなども日によって違っていたりして、自分の状態がとても分かりやすいなあと思います。私はまだまだ変な癖を改善中ですが、歩き方が身体のどこにも無理がなく自然にできていると、いろんなところが整っていくような気がします。そして、ちょっとしんどいなと思う時でも、思い切って歩いてみると、かえって心身ともに楽になるのが、不思議だけどうれしいです。

9/17
自分の生活圏内で大きな道路陥没が起き、ニュースになりました。長さ3m、深さ2m、幸い、大きな車がはまっただけでケガもなく済んだものの、軽自動車だったら丸ごと2m下に落ちていたかもしれません。道路下は空洞になっていて、下水管が腐食して破損していたようで、LED感染(4)の23番がそのまま現実として起きてしまったということになります。今回の台風との関連を言われているようですが、LED化によって、雨水が汚染されてしまっている今、道路の陥没、下水管の腐食もすべて、起こるべくして起こったということ、そしてこのままだと、他の地域でもこれから同様のことが起きるだろうことは予想できます。現実としては、かなり厳しいことになると思うけれど、見方を変えれば、これまで動かなかったけれど、ここまでのことが起き続ければ、専門家も動かざるを得ないのではと思います(「ゼロ感性」を多くの人が知ることとなるチャンス)。そういう時がすでに始まっているということなのかもしれません。

9/16
100人いれば100通りの考えや感じ方があって、それは当然のことながら自由で、でも、その考えや感じたことが言葉になる時、その手前にはあたり前に相手(誰か)を想う気持ちや、そこにいろんな環境、状況の人がいること、その人達の状況や気持ちを想像してみるということを忘れずにいたいなと思います。何かに対しての違和感や、こうすればいいのではという考えも、そこにはあたり前に責任を伴うし、温かな想いからのアドバイスではなく、直線的な意見(ただ言いたいこと)になってしまえば、何かを動かす力にもなれず、時にいろんな人を傷つけたり、知らずうちに動きを止めたりすることに繋がってしまうかもしれません。その人達(当事者)にしか分からないことがあって、それが分からないとしても、その気持ちを想像できるって、優しさなんだと思います。
結果に焦点を置いた、こうあるべき、という狭い価値観での正しさは、物事を本来へと促す力はなく、それができるのは、温かく見守り、応援するさりげない想い(原因)なのではないかなという気がします。

9/14(1)
書こうかどうしようか迷ったのですが…何かの参考になればと思います。先日の台風で、うちの地域が被災地になりました。8日の深夜から停電が50時間以上続き、同時に携帯が全く繋がらなくなり、外の状況も分からないままでした。ものすごい暑さの中で、エアコンが使えない状況は厳しく、車のエアコンを頼りにするしかなかったのですが、ちょうどガソリンがなくなりそうなタイミングだったので、ガソリンスタンドに行こうと外に出たら、信号機も消え、あちこちで電柱や木々がポッキリと折れたり倒れたりで通行止めになっていました(3.11の時もここまでではなかったので、これはLEDの影響でかなり脆くなったせいだと思います)。信号がない状態での運転はかなり緊張するもので、渋滞の中、ガソリンが持つかどうかドキドキしながらたどり着くと、その時点ですでに長蛇の列で45分待ち。待っている間にガス欠になりそうだったので、諦めて他を探し、やっていないところが多い中、なんとか小さなガソリンスタンドで給油制限付きで一部入れることができました。それで、家にいると危ないと感じた日中は、車を走らせて(エアコンで)しのぎました。ガソリンがある家は、夜通し車の中で過ごしていたようです。暑さに加え、停電になる前も暴風雨で眠れず、復旧した日もひどい雷雨でやはり眠れず、睡眠不足が続き、それがさらに体力を奪いました。うちは50数時間で復旧したものの、市内ではいまだに停電が(もう5日間以上)続いているところも多く、井戸水が多い地域のため、給水ポンプも停電で使えず、断水しているところも多いです。今もまだあちこち信号は消えています。震災の時でもここまでひどい状況ではありませんでした。(現在、給水所や無料シャワーなども設けられていますが、その情報も停電中は分かりませんでした)
電気が使えない状態が数日続くと(特に暑い時期に)、冷蔵庫は中身がすべてダメになり、台風で壊れたものや飛んできたものの片づけなどもあって、汗だくになってもシャワーは水で、山積みの洗濯物はすべて手洗い(しぼるのが結構大変で、筋トㇾにはなりますが、手の皮が水膨れになります)。スーパーやホームセンターなど、どこも休業で、コンビニはほぼ空っぽ。遠くに買い出しと涼みに行きたくてもガソリンが足りないし、買い物もカード決済ができないので現金のみなのに、郵便局もATMもやっていない。電波が届くところへ行っても、携帯の充電ができないと使えない。つまり、今や電気がないと、相当生活に支障があるということを身をもって確認した感じです。エアコンも扇風機も使えないので、暑さで眠れない日が続き、食欲もなくなり、熱中症で倒れた人たちもいて、実際に家族や私自身もちょっと危ない時がありました。今もまだいろいろなことが回復していませんが、不安を感じず、できること、しなければいけないことを淡々とやれているのは今だからこそかなと思います。そして、どんな時も守られていること、想いを向けてもらっていることを、あらためて感じています。

9/14(2)
2011年の震災も経験していますが、その時と比べて被害が明らかに大きかったという感じがあって、最も目についた大きな違いが電柱や木々の折れたり倒れたりというところです。震災の時は電線が切れた箇所があって、24時間以上という長い停電になりましたが、それでもそれぐらいで済みました。今回は、市内でもまだあと1週間ほど(つまり2週間近く)復旧に時間がかかるそうで、停電自体も、市の大半の住宅で起きました。それぐらい、あちこちで電柱が真っ二つに折れたり、倒れたり、ある道では、何本もの電柱がすべて斜めになっていたりで、地盤が脆くなっていることがよく分かりました。電柱が折れるなんて、いくら台風でもそう簡単には起きないはずなのに、これはLED水(LEDで汚染された雨水)によって、電柱自体が脆く、折れやすくなっていたのだと思います。樹木についても、倒木も、今回の方が圧倒的に多く、何本も連続して真っ二つに折れているのを見ると、台風の勢いがいくらすごいと言っても、木自体が弱っていることが大きな原因だと分かります。また、お隣を含め、近所の家がいろいろ壊れたりしているのを見ると、やはり地盤も含め、長い間LEDの街路灯や車のLEDライト、そしてLED雨水にさらされたことで、建物や、庭木なども脆くなってしまっているのだという感じがします。
たまたまニュースで、(コストがかかるので)日本では無電柱化が海外に比べて進んでいない、だからこんな大規模な停電が起きるというようなことを言っていましたが、地面の下に電線を這わせても、地面に染み込んだ雨水があらゆるものを脆くさせる(破壊していく)ので、いずれまた形の違った停電は起きてしまうと思います。いつも何かこうした災害などが起きると、焦点がずれていると感じるのですが、2011年と、今回の大きな違いと言えば、急速に進んでしまったLED化だというのは、誰もが分かることだと思います。被災は大変だけれど、今回のことがLEDを外すひとつのきっかけになればいいなと思います。

9/8
人一倍不安(否定感情)が強い人が想像力を働かせたとき、時にそれは危険な発想となって、周りの人たちを巻き込んで、予想もしない出来事を引き起こすこともある。それが、ある集団(国、組織など)の中で力を持つ人だった場合、自分(達)に危険が及ぶ前に、その芽を摘むという形で、人の命を奪ってしまうということが、これまでの人間の歴史上、ずっと繰り返されてきてしまったのではないかと思う。その中にはまだ生まれたばかりや、場合によっては生まれる前の小さな命さえ、犠牲になってしまうこともあったのだろう。やられる前にやる、という発想は、極度に不安(怖れ)が強い人が、非人間的な想像力を働かせたことで、この国だけでなく、世界的にも当然のように争い事を引き起こしてきてしまったのではないだろうか。本当は、それは勝手な思い込みで、相手側にはそんなつもりは全くなかったかもしれないのに。思考を働かせ、不安から非人間的な行動を起こすことなく、そのままでいられたら、そして、少しでも相手の気持ちを想像できたら、その時々の場面で、人はもっと人間的な選択をし続け、争いや、人が人の命を奪うというようなこととは無縁でいられるはず。本来、想像力というのは、知恵となって、みんなの喜びに繋がるものだと思う。争い(戦い)の歴史を2度と繰り返さないためにも、ひとりひとりが自分の中にある不安の原因を浄化していく。

9/7
変な言葉だけれど、被害者意識に対して加害者意識とでもいうのか、何かあると全部自分のせいだと思ってしまう変な癖が昔からあって、結構それが根深いみたいで、事実かどうか分からないことで不安になったり落ち込んだり。ずいぶん薄まってきた気はするのだけど、まだ時々顔を出すことがある。それは結局、被害者意識と同じ性質のものなのだろうということも感じていて、いずれにしても、誰かのことも、自分のことも、もう責めるということを経験したくはないなと思う。

9/6
身体の痛みや不調(病気)、人間関係を含めた様々な問題事があっても、そこに焦点を置いてしまうと(そこにばかり意識を向けていると)、やっぱりどこか滞ってしまうよう。痛みはあるけど、問題事もあるけど、それより大事なことがあるような気がするから、意識はそっちに。っていう感じで、普段、意識しているわけではないけれど、もしかしたら、自分は何かある時ほど、そうじゃないところで表現しようとしているかも(したいのかも)しれないな、とふと思いました。

9/5
ちなみに、昨日の日記を書いていて、ちょっと気になっていたのだけど、オニヤンマにちょっと怖さを感じたのは、オニヤンマが大きいだけでなく、結構獰猛な昆虫だということ。他の虫を食べる肉食で、スズメバチさえ倒して食べてしまうぐらいだそう。他にも結構獰猛だなと思う生き物は地球にたくさんあって(直感)、それだけ地球がおかしな物質によって支配され、本来ではなくなっているということなのだと思うけれど、もし、地球本来の物質に戻った時、それらの生き物は本来の姿に戻る(例えば牙がなくなったり)のか、それとも、地球から消えてしまうのだろうか…?ちょっと気になります。

9/4
近所を歩いていたら、ある家の駐車場で、一瞬鳥かと思うほど大きなオニヤンマを見かけた。たぶん、今まで見た中でダントツに大きかった。でも動きがなんか変で、急に低空飛行して、ザーッと大きな音を立てて、コンクリートの地面に擦ったかと思うと、急上昇し、壁にぶつかって、回転してはまた地面に擦って、壁にぶつかって…をグルグルと繰り返していた。音もすごいし迫力があるしで、ちょっと怖いぐらいだったのだけど、あの動きは何だったのだろう。もしかしたら、方向感覚(脳)がおかしくなっていたのかも。この辺りの街路灯も、もうほとんどがLED化していて、割と明るいうちから点いてるし、車や自転車も。外では植物も生き物も(私も)逃げ場がなくて困っているんだけど…。誰にも伝わらない模様。。。

9/2
なんとなくだけど、バランスってとても大事なのかなと思います。今のこの世の中で生きていくっていうことは、今の社会が決めたルールに従い、世の中の歪な価値観の中で、どうにかこうにか折り合いをつけながらやっていかなければいけなくて…。生活もしていかなければいけないので、ある程度は仕方がないことだと思います。ただ、そんな中でも、自分の中で、ここだけは大事にする、っていうところはきちんと持っていたいなと。そのバランスが崩れると、心身共に厳しくなってしまうのかもしれません。流されず(引っ張られず)、ぶつからず、さらりと余裕をもって、この世界を泳ぐように生きていけたらと思います。すべてを包み込む、クジラのように。

9/1
人からこう見られたい、あるいはこうは見られたくない、というイメージのようなものを大事にしている人(特に有名人など)は結構多いのかなと思うけれど、それが仕事に直結している人はもちろんのこと、そうでない人も、自分のプライド(見栄)やコンプレックスなどが影響したりして、本当は必要がないのに自分のイメージを作り上げてしまっていたりするような気がします。髪型や服装などでもある程度は演出できると思うので、その人がどういう風に見られたいのか分かる場合があります。それが時に過度な(違和感を感じるほどの)女性らしさ(可愛らしさ)のアピールだったり、逆にボーイッシュにし過ぎて、この人は女性でいることを否定したいのかなと思う人もいます。でもそれはあくまで見た目によるもので、本当の女性らしさ(男性らしさ)っていうのは、その人の内面から自然と出てくるものだろうなと…。例えばカジュアルでボーイッシュな格好をしていても、ふとした表情やしぐさに自然な女性らしさが出てくるのが普通で、逆に、見た目とは別に、ふとした時に出てくるその人の表情やしぐさに、凶暴さや傲慢さ(ふてぶてしさ)などが垣間見える時があり、これが本当のその人なのだなと感じる時もあります。何の演出もいらない、普通でいい。でもその「普通」は人それぞれで、結局はどんな見た目であっても、どんなに取り繕っても、その中身はいろんな形で表に出てしまうものなのだろうと思います。(なので、見た目はもう仕方ないけど、せめて中身をきれいにしたいです…)

9/1
下書きしていた日記をアップしようと思ったら、すでに仲間がほぼ同じようなテーマでアップしてくれていた、ということが続きました。タイミングもよくて、なんだかうれしくて。もうアップしなくても自分もそこに参加させてもらったようで、そこからまた別のテーマに繋がって。そうやって、一緒に回転していけたらいいなと思います。



8/30
(特に詳しい知識があるわけではないので、もし間違っていたらすみません)たまたま、次世代有機ELディスクライトというものを見かけたのですが、一般的なLED照明に比べて、ブルーライトの発生が少ないとはいうものの(『LEDは「点」で発光するのに対してOLEDは「面」で発光することで、太陽に近い自然な光になる』そう)、使ったことがないから分からないけれど、やっぱり蛍光灯や電球と同じというわけにはいかないのではという気がします。(OLED:Organic Light Emitting Diode=有機発光ダイオード)
どんどんLED一択になって、LEDが苦手で困っている人たちにとっては、有機ELのテレビやスマートフォンを、他の選択肢として希望を持つのではと思うけれど(電流を流すと発光する有機化合物を使うので、バックライトがいらないらしい)、スマホについては静電気を溜め込むというところで同じだと思うし、結局は微妙に形を変えつつ、(その分金額も高くなり)その本質は変わらないような気がします。多分、一般的なLEDの弱点としては、ブルーライトのリスクだと思うのだけど、そこをなんとか軽減しようと研究に労力や費用を費やすより、普通の蛍光灯や電球を使用する、という選択肢をもっと残してくれたほうがシンプルで、人にも環境(「ゼロ感性」)にも優しいのではないかなと思うのだけど…。きっとそう感じる人は少なくない気がします。

8/26
今日、散歩をしている時、脇道から急に現れた女の人がいかにもランナー(アスリート)、って感じの新しそうなスポーツウエアで全身をコーディネートしていて、カッコいいな~と思ったのだけど、走り始めたら、絵に描いたような女の子走り(手首と腕を横に振る)で、すごくゆっくりで、そのギャップにちょっと笑ってしまった。自分も形から入りたがるところがある(そして続かない)ので、気持ちは分かる気がする…。

8/26
つい先日まで選挙カーが毎日何台も家の前を行き来していたのだけど、そのほとんどが何を伝えに来たか正直良く分からなかった。名前を連呼するのはまず誰もが第一にすることだけれど、その他には例えば「安心安全!」とか「有言実行!」とかをただ繰り返していて、何が安心安全なのか、何を有言実行なのかというところについては何も話していなくて。選挙カーはずっと同じところにいるわけではないので、まずは名前を憶えてもらって(記憶に強く残して)とにかく投票してもらう、というのが一番大事で、政策などはどこか駅前などでじっくり聞いてもらうということなのだと思うけれど…。短くでも何をしたいのかというのが少しでも伝わってくればいいのにと思っていたら、少しだけ聞こえてきたのが、「皆さんの健康的な生活のために、医療制度の充実を」や、他の市と比較して学力が低いことを第一の問題としていたり。多分、医療制度が充実しても健康的な生活を送ることにはならないと思うし、学力も大事かもしれないけれど、比較競争の発想からの学力向上よりも、学校にはもっとたくさんの課題(例えば教師や生徒同士の中での差別やいじめ、不登校の子供たちがとても多いなど)があると、子供たちを通わせていた中でも感じることがあった。と言っても、結局は無所属が1番多かった以外は公明党が複数議席を確保していて、創価学会の人が多くいるこの地では、当然の結果なのかなという気がする。その人達にとっては政策って本当はどうでもよくて、公明党の人がいかに議会で力を持つかっていうところだけなのだろうと思う。そんな中、ウグイス嬢のように上手ではなかったけれど(その分うるさくなくて)、立候補者本人が今この街に必要だなと思えることを伝えていて、同じ党だったらみんながみんな同じというわけではないと思うけれど、なるほどこの党の人だったのね、と思える人がいたことにちょっとホッとしたりした。

8/21
誰かが元気になった様子に安心し、誰かの力強さにも安心し、誰かのうれしい様子にもまた安心し…。心配の裏返しの安心じゃなくて、その元気や力強さやうれしさを共有できる喜びのような。ここからまた元気や力強さ、うれしさが誰かの安心に繋がっていったらいいな。

8/20
ハンドルを握ると人が変わる、という人を何人か知っています。実際にその人達が運転する車に乗って、命の危険を感じたことが何度かあります。怒りを抑えられない(あるいはスピードを出すのが好き)、そのために同乗者の命を危険にさらしても構わないのだなと、その本性を感じさせられた時でもありました。そういう人達はとても多くいるなと感じていて、例えば、町内を走る時は気を付けていても、ちょっと離れたところでは、ものすごいスピードで走っていたり、危ない運転をしている近所の人達の車を何度となく見かけます。そういう人達のひとつの特徴として、匿名性というのもあるような気がします。車に乗ると、直接顔を合わせるというより、その瞬間だけすれ違ったり、前後になったりと、一時的な関わりの上、基本的にはどこの誰かまでは分からないことがほとんどなので、これが無茶な行動に拍車をかけているように感じます。それと、これは個人的な感想で、もちろんみんながみんなというわけではないですが、高級車やトラックなどの大きな車で、強引な動きをする人が結構な割合でいるように思います。車の金額の高さや車体の大きさを自分の偉さ、力の大きさと勘違いしているような。ぶつかったらそっちが困るだろう、というような空気を感じるのは気のせいでしょうか…。
この、匿名性というのは、他の場面でもちょっと怖いものを感じていて、例えば、「旅の恥は搔き捨て」という言葉が昔からあるけれど、日本人は礼儀正しく親切、とよく言われる割に、自分の生活空間でないところでは、意外とマナー違反を平気でやってしまったり、SNSなどでも、平気で人を傷つけるような発言をしてしまったりと、もし、自分がどこの誰か明らかにしたうえで、面と向かってならできるかな?というようなことをしてしまう傾向にある気がします。日本人は礼儀正しく親切、というのは、あくまで外面がいい、というのが本当のところなのでは、と思うとちょっと寂しいけれど、その人の本性、って、案外匿名性のあるところで顕わになってしまうものなのかもしれません。

8/19
これまで、非生命的な存在や、その原因となる物質について知る機会を得ながら歩んできて、海の塩を控え、岩塩を摂るなど、何から離れ、何を摂り入れるかによって、身体が大きく変わるという体験をしてきたけれど、現時点では、そのほとんどが非生命的な意思によって、本来とは大きくかけ離れたものになってしまっていると思う。その状況を受容しながら、この地球で生きているのだから、新たに知り得たことも、過敏に反応するより、ただそのことを把握しながら、淡々と行けばいいのかなと思う。
「~はよくない!」と、少しでもその成分があったら極端に避ける、というような反応をしてしまう時、不安や差別心が強く働いて(働かされて)しまっているのかもしれない。それらに触れる(摂り込む)ことへの不安(それはご利益的な発想、「自分さえよければ」に繋がっている気がする)、いい悪いで判断して、悪いものを排除しようとする発想。それは、物に対してだけでなく、人に対しても同じように起きてしまうのではと思う。そういう世界から、もう離れることができる今、知ることが自分のためだけになってしまうのではなく、知り得た自分がそれをどう生かすか。出てくる思考や感情も観察しながら、無有日記の世界を生きていきたい。

8/15
誰かのために、という思考から始まるよりも先に、ただ反応し、それがそのまま行為になる。誰かのためにでも、ましてや自分のためにでもなく、全体の必要性を、その意識もなく、言葉や行為にしながら生きられたらと思う。人間的(個人的)なところを超えて、もっと大きなところへ連れていってもらっている今、余裕をもって人間世界のあれこれを観る。(ことが少しだけできてきたような…?いやいや、まだまだだけど)ただ今この時を、楽しみながら歩んでいこう。

8/15
言葉で伝えなくても、想いは届いてほしいところへと届き、何をどう伝えても、何も伝わらず、何も変わらない存在のその姿からは、それがそうであることの理由を確認する。表現は、文章だけじゃなく、日常生活の中にもその機会はたくさんあって、表現することによって、想いを通わせたい存在と、不必要な融合を避けたい存在が、その表情や何気ない言動からより顕になってきている気がします。

8/9
朝の果物から始まって、ほぼ、毎日の食事には、ブラック岩塩をかけて食べるということがあたり前になっているけれど、このところ、その量が落ち着いてきているような気がします。昨年12月に初めてブラック岩塩と出会って以来、日本一ブラック岩塩を食べているのでは、というぐらい、ものすごい量のブラック岩塩をいろんなものにかけたり入れたり、直接食べたりと、身体に摂り入れてきていて、でも、それが他の人が驚くほどの分量だったので、私は相当これまでの海塩の影響がすごくて、それを排出しなければいけなかったのだなと…。むくみがひどかったのもなるほどです。仲間が、多くかけると、しょっぱいと感じる、と言っていたのだけど、自分はそう感じなくて、でも最近、これまでのようにかけると、しょっぱいと感じるようになってきて、ようやく身体が欲するブラック岩塩の量が普通になってきたのかなと、ちょっとホッとしています。そういえば、10年ほど前に生命食を始めた時も、異常なくらい果物と生野菜を食べていました。それもいつの間にか落ち着いてきたけれど、身体が必要とする栄養素や、身体から排出しなければいけない老廃物は、身体が一番分かっていて、自然と調整されるものなのだなあと、頭ではなく、身体の声に素直でいることの大切さをあらためて思いました。

8/8
誰かの何でもない日常の風景にホッとする。ひとりひとり、立場も環境も違って、大きなテーマはひとつでも、個人的に向き合うテーマはそれぞれ。でも、だからこそ、全体の仕事ができるのだろうなと思う。同じような人がたくさんいても意味がなくて、その人がそこにいるからこそ、できることがあるのではないかなと…。例えば土地の病みひとつをとっても、その場所を担う人がそこにいてくれることで、守られるもの、動くものがあるような気がする。それぞれ、その人ならではの持ち味を活かしながら、自分のいる場所でできることをしていけばいいんだろうな。

8/5
表現しながら歩んでいく中で、いろんな人や出来事に良くも悪くも影響を受けながらも、少しずつ、強くたくましく、そしていらないものを外していけたらいいなと思う。参考になること、吸収できることはたくさんあると思うけれど、無くしたくないもの、無くしてほしくないものは、自分らしさ。

8/1
数年前、ある芸能人の人達が乳がんになり、それを機に、当時たくさんの人たちが乳がん検査を受けに行ったということが話題になったことがありましたが、今、やみくもに乳がん(に限らず)検査をしない方がいい、ということが、一部の専門医や医療に詳しい人の間で言われ始めているようです。Ⅹ線による被ばく、検査時の痛みなどの心身の負担、さらには命に関わるがんでなくても(放っておいてもいいものでも)一様に手術、放射線、抗がん剤などの治療が行われてしまうことなど、デメリットについても目を向けられるようになってきているのはいいことだなと思います。私自身、25歳の時、胸にいくつものしこりが見つかり、大学病院で初めて検査を受けました。幸い、良性だったのですが、以来、毎年がんセンターで精密検査を受けることを義務付けられました(しこりががんと区別がつかないため)。毎回の検査では、マンモグラフィーという検査による被ばく、さらには胸を挟むため、かなりの痛みを伴うものであったこと(場合によっては針を刺して直接細胞を採ることも)、そして、検査結果が出るまで不安な気持ちを抱き続けたことなど、その当時の心身のストレスはかなりなものだったように思います。
結局、いつのまにかしこりは消えてなくなり、精密検査どころか、もう10数年、普通の集団検診にも行かなくなったけれど、数年前、だんなさんの会社から何度も連絡が来て、仕方なく1度検査を受けたことがあります。でも、長く待たされている間に具合が悪くなり(指定病院の待合室はLEDでした)、やはり心身の負担も大きく、それ以来受けていませんが、会社側としては、もし、がんや大きな病気になったら、治療費がかかる(会社の健康保険の負担増)ため、検診を受けてほしいそうで、はっきり意思を伝えても、何度も何度も連絡が来ます。だんなさんの方へも連絡が行き、受けてほしいと言われたので、今は検診の必要を感じていないこと、メリットより被ばくやその他の心身の負担というデメリットの方が大きいと思うので、今のところ受ける予定はないことなど、やんわりと伝えました。
これは、あくまでも私の個人的なスタンスで、もちろん検査を受けた人の中には、放っておけば命に関わるようなものが見つかって、外科的治療によって助かったり、寿命が延びた人もたくさんいると思いますし、今現在も治療を必要としている人たちもたくさんいると思います。なので、今必要としている人に治療をやめた方がいいとか、絶対に検査はよくない、ということではないのですが、乳がんについては、セルフチェックができ、それでしこり(や自覚症状)がないのに、毎回Ⅹ線による被ばくを繰り返すことはどうなのだろうと…。元々がん細胞って、毎日できては免疫力によって消えていっているそうですし、要は免疫力が落ちないよう、果物や生野菜、全粒穀物、豆乳などをベースとし、極力お肉を控えるなどの食生活を送ることによって、そのリスクも大きく減らすことができるのではと思います。(ちなみに、乳がんと牛乳の関係はよく言われていて、そういう部分でも、牛乳は控えた方がいいのかなと)「ピンクリボン運動」とは真逆な考えだけれど、健康体なのに、放射線被ばくを繰り返すことによって、かえってがんのリスクが高まるかも、ということも頭に入れたうえで、がん検査(検診)を受けることについては考えてみるといいのかな、という気がします。



7/28
自分の中のテーマって、少しずつでも変化していくのが自然な気がしていて、ひとつひとつ何かが消えてはまた新たなテーマと向き合っていくのかな、と思っています。ただ、今は何が気になっていたのかも分からないぐらい、何にもない感覚。今がとても大事な時だと感じているけれど、全然力が入らなくて、でもいろんなことを感じてはいるようで…。きっと、それが言葉になるタイミングが来たら、また自然と表現しているのかな。

7/23
生命が、天体と意識を重ねていた時って、どんな感じだったのだろう。気が遠くなるほどの時間も、天体(太陽)時間だとまた全然違うのだろうか。「生命を生き、人間をやる」のムーセンテンスは、歩みの中で、どんどん違った意味合いに感じられるけれど、今まさに、生命を生き、人間をやってるんだなあと…。永い永い時間の流れの中で、ボロボロになってしまった太陽系が本来に戻るための流れを、この短い人間時間で創っているなんて、あらためて思うとすごいことだなあって。あと100年、長生きしなくっちゃ。

7/16
口の中を噛んでしまったり、免疫力が落ちてしまったりしたとき、よく口内炎になってしまい、1度なると1週間ぐらいはかなり痛い状態が続いてしまうのですが、岩塩と出会ってからは、とても治りが早くなってくれて、助かっています。私がやっているやり方は、指に黒岩塩のパウダーを多めにつけ、そのまま口内炎に押し当てます。その時はけっこうしみるけれど、しばらくそのままにして染み込ませた後、押し当てるのをやめて、なるべく口内炎の部分に長く岩塩が残るようにし、後は少しずつ溶けていくのに任せます。何回やってもいいと思いますが、私は1日に1~2回やるだけで、翌日にはだいぶ痛みが軽くなっていて、1~2日後には、食事もほとんど普通にできるようになります。今回も、ワークの日の夜、小さな口内炎が突然できて、気づいたときにすぐに岩塩をつけたら、翌日、白くなった部分は大きくなっていたものの、痛みはずいぶん楽になり、今日はほとんど痛みはなくなりました。何日も痛くなくてすむので、もしよかったら試してみてください。

7/15
ただ、地磁気を通せる(可能性のある)自分でいたい。今の思考も感性も、すべてが本来でない自分だとしても、今の自分なりに表現しながら無有日記と共に歩む中で、ほんのわずかでも地磁気を通せるようになったなら、クジラも地球も喜んでくれるだろうか。

7/15
身近な人を使ったり、情を利用し、心ある人の動きを止めようとする力はとても巧妙だなと思います。使われている人も自覚がないし、その人が悪いとかいうことではなく、ただ、影響を受け、そのエネルギーを通してしまっているだけ。でも、情を利用されることで、いつの間にか訳のわからないきつさや不調を抱えさせられてしまうとしたら、自分の正直な感覚を、思考や情で抑え込んでしまうことは、とても危ういことだなと、あらためて思います。常に自分の感覚を大事にしている人は、ちゃんとキャッチすべきものをキャッチしていて、確認作業のように、知ることを活かせるのだなあと…。自分は情に弱いなと思うので、感じるままを大事にしていきたいです。

7/13
同じような言葉、あるいはまったく同じ言葉でも、誰がどんな想いで使うかによって、まったく違う伝わり方をする。言葉って面白いなあと思う。内容以前にその人そのものが伝わってくる。なので、立派な文章であるとか、きれいにまとまっている必要はないと思うのだけど、「こう見せたい自分」というのが強くあったり、これが正解、のようなものがあると、どこかで実際の自分と文章を書く時の自分が使い分けられてしまったりということが起きてしまうかもしれないなと思う。自分を卑下する必要はないけれど、自分に正直でいるって強くなければできないと思うので、情けない時があっても、ありのままでいられる人はカッコいいなあと思うし、自分もそうであれたらいいなと思う。

7/11
今日もまた、キリスト教系の勧誘の人達が来たのだけど、毎回人が違っても、みんな一様にねっとりした話し声でしゃべるのはなぜなのだろう?さらに気になるのが、服装。季節が変わっても、茶色とかグレーとか、地味な色で全身を統一し、来るのはほとんど女性なのだけど、みんな決まってロングスカートにストッキング。夏は日傘か地味な帽子…。(なので外を歩いているとすぐ分かる)
もし、その宗教の決まり事として、地味な服装にしなければいけないとか、ロングスカートでなければいけない、というようなものがあるとしたら、あるいは暗黙の了解として、そうしなければいけない空気があるとしたら、その宗教はその人達にとってなんのためにあるのか良く分からないなと思う。人と同じでなければ、こうでなければいけないという抑え込みは、個人の自由が尊重されないわけだから、ただその宗教にとって都合のいい人間を量産しているだけのような。でも、もしかしたら、自分自身というものがない人にとっては、決まり事がたくさんあるほうがありがたいのかもしれない。何も考えず、その教えの通りにすればいいわけだから…。ただ、はたから見ると、ロボットのように同じような雰囲気の人達なので、正直ちょっと気持ち悪い感じがして、やっぱり勧誘される気にはなれない。もし、カラフルなTシャツにGパンだったら、ずいぶん雰囲気も違ってくると思うので、ちょっと話を聞きたくなるかも。(ウソです)

7/10
非生命の意思が力を持つことで、力(活力、元気)が無くなってしまったとしても、きつさを感じても、想いが行き交い、響き合い、支え合って、何か突き抜けていけたらいいなと思う。ずっとそうやって、支え合い、智恵をもって生き抜いてきたのだろう。今の面識のあるなし、交流のあるなしに関わらず。何かずっと昔の風景が心に浮かぶような。記憶があるわけじゃないけれど、ちょっと心があったかい感じ。

7/6
近所でよく鳩の集団が飛んでいるのだけど、見ていると、先頭の1羽は常に先頭ではなくて、旋回した時に、自然とフォーメーションが変わって、先頭にいた鳩は、真ん中あたりに行ったり、最後尾に行ったり。その時の様子はとても自然で、周りの鳩もみんな最初からそのことが分かっているかのように、その場所が自然と空いて、決してぶつからない。それは他の鳩たちもみんな同じで、その時々で場所が入れ替わっているんだけど、ちゃんときれいにひとつの群れとなって、まとまって飛んでいる。調和ってきれいなんだなって、しばらくぼ~っと見上げていた。

7/2
あるエネルギーに触れた時の反応がすごくて、以前は思考でそれを鈍らせていたのだなとよく分かる。
見た目(目に映るもの)や過去の出来事を全部取り払って、ただ、今感じるものに正直でいよう。いいも悪いもなく、ただ、エネルギーに正直に。

7/1
うちは電化製品がよく壊れるのですが、このところの80%ぐらいの湿度のせいか、また家電が暴走してしまいました。今度はテレビ。リモコンにも触っていないのに、急にボリュームが最大になり、入力切替が延々と変わり続けて…。しばらくリモコンにもまったく反応しなくなってしまいました。(しばらくしたら急に直りました)5月末には、火災探知機が誤作動を起こした他に、タッチ式の扇風機がピピピピと音を立てて、繰り返しついたり消えたり。日を置いても直ることはなく、仕方なくボタン式のに買い換えましたが、数年前には携帯電話を買った直後に、触ってないのに勝手に電話をかけたり、メールの文字を打ったり消したり、電卓が動き続けたりして使えない状態になり、交換してもらったものも、また2日で同じ現象になるということがありました。(携帯会社の店員さんの目の前でも起きたので、機種変更することで解決しました。)静電気によるものだと知る今は、慌てることもなくなりましたが、それでもやっぱり急にいろんなものが誤作動を起こすと、普通はビックリしてしまうと思います。その原因が分からないまま、こういう不思議なことが続くと、例えばホラー的なことを考えたりして、不安になってしまったり、人によってはお祓いをするとか、そういう方向へ向かってしまうこともあるのかなと思います。実際に、この家に引っ越してきて、事故や病気が続いた時、両親から「方角が悪いのでは」と言われたことがあったし、親せきの家では、「キモン」だからと、トイレが塞がれて、別の場所に作り直してありました。過去には身内からお祓いを勧められたことも。縁起がいい、悪い、や、バチが当たる、など、「こういうことをするとこうなるのでは」という不安が人を縛っていろんな不必要な行為に走らせ、何かがあると、全部バチやたたりなどといったもののせいにしてしまったり。そういう物の考え方も、この国に染み込んだ神道による抑え込みのような気がします。昔は電化製品はなかったけれど、静電気(の原因となる物質)はずっと昔からあって、それが病気や悪天候(災害)や、いろんな不思議だと思われる現象を引き起こして、それを神道が利用する、ということがあったのではないかなと思います。なんだか自作自演という感じがするけれど、不安がなければそこには巻き込まれないのだなと、不安から離れた今、なんとなくその仕組み(カラクリ)のようなものを眺めている感じです。



6/27
湿度は高いけれど、天気予報に反して、ここ3日程、太陽の光に助けられている。何かに覆われてしまったように、自分の意思すら分からなくなってしまったり、他のことでは動けても、表現しようとすると、負荷がかかって身動きが取れなくなってしまう感じがして、でも、とにかく太陽に誘われるように外に出て、何も考えず歩いていると、少しずつ何かが復活してくる感じがする。太陽って、どれだけエネルギーを注いでくれているんだろう?

6/22
いろいろな想いが行き交う。今ここにこうしていられるだけでうれしい。そんな6月。

6/19
朝昼晩と、食事の度に何度も電子レンジの音が響き渡る。IHも大活躍。リビングはもちろん、ダイニングテーブルの上にも、LEDライトが青白く光っている。ちょっと具合が悪くなれば、病院や薬のお世話になり、それで症状が治まればOK。休日は趣味にいそしんでいて、とても生き生きしていて、元気そう…という人達がいる。その人達は健康。でも、生命本来を生きる人たちの健康と、その中身は全然違う。
その人達のエネルギー源は電磁波(静電気)だったり、LEDだったり、化学物質だったり。それらを使用することで、まるでそこから栄養を吸収しているかのよう。そんな人達が持つ粒子はその人達にとっては必要なものでも、そうでない人達にとっては不健康(病気や痛み、動きにくさ)の元。入れ込まれたその粒子が力をなくすことで、生命本来を生きる人たちは生き生きと元気に、そうでない人はそれなりに…(ってCM、昔ありましたね)。そんな時を迎えられると思うと、なにかまたギアが入る感じ。

6/17
ちょっとまだ早いよね~と思いつつ、もう丸ごと出回っているスイカを今年初めて買ってみました。(この辺りは名産地)これまで、スイカに塩をかけるのは好きじゃなくて、ずっとそのまま食べてきたけど、今年は岩塩がある!と思って、岩塩を振りかけて食べてみたら、あらためて岩塩は「塩」ではないということがよくわかりました。スイカに(海)塩をかけると、大げさな言い方をしてしまうと、食物の本来持つ力を一瞬にして奪って(しぼませて)しまう感じ。岩塩は全然違って、どこまでも本来を生かす感じ。(塩分より、ミネラル分を感じました)スイカは水分が多いから、よりその差が分かりやすかったのかもしれません。スイカ&岩塩をたっぷり摂って、そのあと散歩に行ったら、いつもより動きやすかったのにもちょっとビックリでした。

6/16
不安でいっぱいの存在が、何かがあった時のために…と、不安を前提とした動きをする時、本来不安がない人たちは、抑え込まれるような動きにくさを感じてしまう。何も起きていないのに、起きた時の想像をあれこれ膨らませて不安をあおり、それに同調する不安でいっぱいの人を引き連れ、数の力で不必要なものを必要とさせる。それに同調しなくても、結局数の力で感じる想いは抑え込まれ、無いものとされてしまう。不安を前提とした発想、それを元にした動き、作られるものの数(種類)はものすごく多い。必要とさせられているものの多くは、不安がなければいらないものばかり。

6/14
セクハラ、パワハラぐらいは知ってるけど、なんだか最近いろんな「〇〇ハラ」があるみたい。でも結局、相手の気持ちになることができない自己中心的な人や、その行為を、いろんな場所や場面で、カテゴリー分けしているだけのようで…。「〇〇ハラだ~!」って言ってる人も、別のところで言われてるかも。新しい種類の〇〇ハラを作るより、お互い自分がされて嫌なことを人にしなければ、ハラスメント、って言葉自体なくなるのに。

6/13
仕事でもなんでも、言われたことだけやっていればいい、といった感じで、まるでロボットのようにマニュアル通りにしか動けない人は、言われていないからやらなかった、そのことで、相手(や周り)の人達がどれだけ大変な思いをしたとしても、そのことを想像することができない、あるいは想像できても、自分の仕事(役割)の範疇ではないからどうでもいい、という感じなのかもしれない。もしそうだとしたら、その人は、本当の意味で頭(脳)を使って(使えて)いない気がする。本当に頭を使えていたら、相手のために、という意識もないぐらい、ごく普通のこととして、その時々で関わる人すべてにとって必要な動きをしていると思う。それは思いやりとか、優しさ、心配りという言葉に変換できるのかもしれないけれど、その人にとってはそういう意識もなく、自然と調和ある動きができる、それが本当の意味で頭(脳)を使っているということではないのかな。

6/11
今から30年前、突然足の後ろ側が痛くなって、前に屈むことができなくなり、病院へ行くと、尾骨の右か左か(忘れたけど)がつぶれて、反対側にめり込んでいる、と言われました。子供の頃から何度もお尻をしたたか打ちつけているので、いつそうなったのかも分からなかったけど、1ヶ月間、毎日病院へ通って、なんとか屈むことができるようになりました。でも、それ以降、何度となくその痛みはぶり返し、尾骨自体も痛みが出てくると、数ヶ月単位でクッションなどがないと座れないほどということが繰り返されました。なので、尾骨が直接床に当たるなんてことはできなかったのですが、今日、お風呂の時にふと思いついて、浴槽でお尻をフリフリして尾骨が当たるようにしてみたら、痛くない!尾骨の日記が出た時、なにかうれしくて、ふと軽くなるような、解放されるような感じがしたのですが、先日のワークを経て、尾骨が無かった時代の自分を少し思い出させてもらったのかもしれません。

6/10
CS放送のCMで、始まった途端に、なんとも重たい気持ちになるのが、恵まれない子供たちに支援を、というような類のもの。痛々しい子供たちの姿を映し、哀れを誘うようなナレーションとBGM。この姿を見て、支援をしないなんて、と、なんだか責められているように感じる人もいるのではと思います。実は先日、突然、誰もが聞いたことのある団体(のうちの一人)から封筒が届きました。その封筒に書いてある文章も、寄付を求める長い手紙も、子供たちがいかにかわいそうかと、哀れを誘い、また、連続した「緊急」の文字や「今すぐ」など、急き立てるような内容で、これを読んでも寄付をしないなんて、人でなしだと言わんばかりに思えました。そして、寄付をしてもいないのに、「ご支援への感謝として」と、ペンとポストカードが同封されていました。言葉は悪いですが、なんだか送り付け商法のように感じました。寄付の金額も、いくつか選択肢があって、その額もなかなか高額だったりして、ほんの気持ちの金額では寄付しづらい空気を感じます。
確かに海外には過酷な環境で、生死に関わるような状況の子供たちがたくさんいるので、それに支援をすることは否定しません。しようと思う人はすればいいと思うし、実際にそれで助かる子供たちは少しはいるのだろうけど、このやり方は、罪悪感を利用する、ということのように思えて、どうしても引っかかってしまいます。文章全体から、恵まれない子供たちのために、いかに自分(医師)が頑張っているか、というアピールも感じます。
非営利団体だから、お金儲けのためにやっているわけじゃない、やっていることも(行為としては)誰もが素晴らしいと思い、否定することはできない。でも、ふと思うのです。もし、頑張って助けている子供たちがみんな元気になって、病気の子供たちが一人もいなくなって、自分が全く必要とされなくなったら、その医師たちは本当に心から喜ぶのだろうかって。助けるべき弱い存在がいて、崇高な志を持つ自分が必要とされていることが大事なんじゃないかって。
こんなことを書くのは、ケチで人の優しさを疑う、冷たい人間なのかもしれないけれど、いくら支援しても、原因が変わらなければ、そういう子供たちは減ることはないと思います。紛争も、病気も、その元があって、それを続けさせようとする破壊の意思が力をなくさない限り、いつまでも辛い思いをする子供たちはなくならず、その子供たちをかわいそうと、必死で頑張る医師たちが寄付を求め、子供たちの姿を使って情に訴える。その堂々巡りのような状態を終わらせるには、同情することより、病気や争いと無縁な、健康で平和なエネルギーによって、病気や争いの原因が力をなくすこと。一見時間がかかるように思えても、それ以外に方法はないと思うのです。

6/5
嫌われるのは仕方がないとしても、これからもお付き合いをしていくつもりだった中で、あからさまに態度が変わっていたり、問い合わせに対して返事がなかったり…。「もう、できれば関わりたくない」という空気がすごく伝わってきて、そろそろここともお別れかな、というお店があったりします。以前なら、困ったな、とか思ったりしたようなことも、最近はそんな相手の分かりやすい様子も含め、なんだか楽しめる(余裕をもって観察できる)ようになってきて、その時々の関係性を、枠にとらわれず、自由に選んでいけばいいかなと思っています。

6/5
運転免許の更新手続きに行ってきました。高速に乗ると、ムーさんのように周りに誰もいなくなる、というのはちょっとなかったけれど、朝の通勤時で混んでいるはずなのに、自分の前は(真ん中の車線)空いていて、あっという間に目的地に着きました。感覚的にはいつもの半分ぐらいの時間という感じで、いつも混んでいて時間がかかるイメージだったので、あれっという感じでした。
5年ぶりの更新なので、普段見ることのない、これまでの免許証の写真を見ながら、今度は、ずいぶん老けた感じになるのかな、と思っていたのですが、新しい免許証は、前のとあんまり変わった感じがしなくて(写真が小さいので…)、実際はいろいろしわが増えたり、たるんだり、もちろん老けてるのだけど、空気感は、あまり変わってないのかな、と勝手に思い込んでいます。
前に並んでいた女性といろいろ話していて、かなりお年なのかなと思っていたら、実は10歳ぐらいしか違わなかったのですが、話す内容が「もう年だから…」というような感じだったり、服装もとても地味なワンピースで、なんとなく自分からお年寄りっぽい雰囲気を作っていたようです。私の知っている60代、70代の人達の方がずっと若々しくて、それは、空気感の違いが大きいのかな、と思いました。60、70になっても、GパンとTシャツが似合うような自分でいたいです。

6/2
子供を産む自由、産まない自由。時々そういう言葉を聞きます。いろんな人がいて、いろんな考えがあって、いろんな事情や状況もあって…。だから、誰かが簡単に産みなさい、とか産んではいけない、と言うことはできないのだろうと思います。たまたま同時期に目に留まった、知的障害などを理由に不妊手術を強制された、強制不妊判決と、ある政治家による、「最低3人は産んで…」発言のニュース。前者の手術を受けさせられた方たちは、産みたいとか産みたくないと思う以前に、強制的に産むという選択肢を奪われ、心と身体を傷つけられ、後者は身体的に産むことができない人や、産みたくても経済的に難しい人など、いろんな人のことを傷つけたのだろうと想像します。私自身は子供を産んだ立場だけれど、正直、このテーマは私には難しくて、はっきりこう、と言えることはないのですが、不妊手術を強制した旧法を決めた人たちも、今回の発言の政治家も、ある一面だけを見て、安易な考えを持ったような気がして、なんだか寂しさを感じています。
そして、いろんな考えがあるとは思いますが(産みたくても産めない人を傷つけてしまうかもしれませんが)、病気がなく、経済的な問題、事件や事故などの危険もない世界が本来だという前提で言えば、もちろん選択の自由はあるけれど、生命として、命を繋ぐということがひとつの自然な形としてある気がして、だとしたら、誰もが安心して子供を産める、そんな未来をみんなで引き寄せられたらと思うのです。



5/30
大阪での電車の風景だけでなく、BSの帰りもまた、電車の中の様子がグッと変わっていました。特急の先頭に乗って、ふと周りを見渡すと、スマホを手に乗ったばかりの人が、あっという間にスマホをしまって、寝てしまっていました。その後ろを見ると、後ろの人も、またその後ろも。え?と思って、そ~っと少し立ち上がって後ろを見ると、乗ってそんなに時間が経っていないのに(東京駅始発)、かなりの人が眠りこけていました。
そして面白かったのが、降りる人を2~30人見たのですが、スマホを手に歩く人がほんの数人しかいなかったこと。普段みんなほとんど、どんな時もスマホを手にしているので、これはすごい違いだな~と。そのうち、これまでスマホなしでいられなかった人たちが、「最近、スマホを見ると(持つと)なんか眠くて…」というふうに変わってきたりして。

5/30
自分は気づいていなくても、いろんな人に支えられて、力を貸してもらっていたり、想いを向けられていたりということって実はたくさんあるのだろうと思う。そんな想いの力を受け取ったら、自分も誰かの想いの力に少しでもなれたらなと思う。地球そのものを生きる人たちが元気で活躍できるよう、私もここで、少しでも。

5/25
いつも家の周りのあちこちでたくさん小鳥が鳴いているのだけど、今日は特にいっぱい集まって、口々になにかおしゃべりしているよう。特におしゃべりな2羽がいて、交互に何か相談しているみたいに鳴いていて、何話してるんだろう?って、なんだかそれだけで楽しくなる。
このところは気温24℃ぐらい、湿度30%になる日が続いていて、今日は気温も湿度もちょっと高めだけど、それでも40%台。朝からいっぱい洗濯しても、すぐにカラッと乾いて気持ちいい。
不安も心配も、どこかへ行って、どんどんアホっぽさが増していて、いろんなことがど~でもいいって感じになってきてる。湿度が下がると、じめじめした気持ちも乾燥して消えていくんだな。

5/23
「期待しない」っていうことにもいろいろあると思うけれど、どうせ無理だから…みたいに、ふてくされる(諦める)のでもなく、期待すると後でガッカリするから(傷つきたくないから)期待しないっていうのでもなくて、結果を求めず、希望が叶うか叶わないかというところに焦点を置かず、ただ、そのことが必要だからそれをする、そのプロセスが大事だからそれをする、そんな感じがいいんじゃないかなと思ったりしています。何かを求めるって、欲だから、それが得られないならやらない、となると、その行為はすべて嘘ということになってしまう。自分の願う現実を引き寄せられるかどうかというところは脇に置いて、たんたんと目の前にすべきことがあれば、ひとつひとつやっていく。そのたんたんと、も、たんたんと行かなければ、と力が入っちゃうと、たんたんとではなくなり…。(「たんたんと」の世界も奥が深い…)要は頭空っぽにして、力を抜いていけばいいのかな。

5/22
前に女性の下着のことを書いたのは、最近、汗を吸わなさそうな感じの下着が増えているなあと思ったからです。夏になると、胸のところに汗が溜まりやすい感じがして、綿の下着だと、汗をよく吸ってくれるかなと思って見てみたら、軽くて薄くて…の、ナイロンやポリエステルのみのものがすごく多いと改めて感じたのでした(その後、たまたま入ったお店で、身体に合う、オーガニックコットンの下着を見つけました)。。。のですが、肌に直接触れるものについては、綿がいいかなと思うのだけど、実は私は化繊のものも持っています。バイクに乗る時のウインドブレーカーとか。ちょっとした羽織ものも、綿じゃないのもあって(軽くてしわにならなくて便利)。なんていうか、ベースに綿が気持ちいいと感じる自分がいれば、場合によって、そうでないものを利用してもいいかなと思っています。(多分、自分の中の湿気がなくなることが大事で、そうなると、静電気も溜まりにくくなるのでは…)その感じは、岩塩をはじめとした生命食も、素数も同じ感じがして、岩塩と融合する自分、素数の原因と融合できる自分がいれば、あまり細かくこだわりすぎなくてもいいのかな…なんて。あくまでいい加減な私の場合ですが。。。

5/20
何か失敗をしてしまったりした時、それをしてしまったという事実は、なかったことにはできない。だから償うとか、責任を取るということになるのだと思うけど、例えば責任を取って辞任とか、刑務所に入って償うとか、場合によっては命をもって償うとか…。でもそれで責任を取る、ということにはならないんじゃないかと思っています。責任を取る、って本当はできないんじゃないかと…。ただ、責任を持つということはできるのかなと。やってしまったこと、起きてしまったこと(の原因)を可能な限り修正し、2度と同じ繰り返しをしない。そのために、今自分ができることを自分なりにやっていくこと。
反省や後悔というのも、同じ繰り返しをしないというところで必要なこともあるのかもしれないけれど、現実逃避や自己弁護に繋がってしまうこともあるように思うし、ずっとそこにいることで停滞してしまうような気がする。後悔しない生き方、ってまだまだできないけれど、少しずつでもそういうところにいられたら、反省という言葉の意味合いも、もっと次へ繋がるようなものへと変わっていけるような気がします。

5/19
給食の冷凍ミカン、まずかった~。(今でもあるのだろうか?)栄養バランスを数字で考えると、本当に必要な栄養(酵素とか)のことは脇に置かれてしまうのかな。もし、給食が生命食だったら、病気とは無縁の人が普通になっていくのだろうと思う。少なくとも、主食は全粒穀物食とか、味付けをてんさい糖と岩塩にするとか。牛乳が豆乳になるだけでも、アレルギーの子や骨の弱い子が減っていくかも。子供の頃から毎日の食事で安定していた静電気も、新鮮な果物、生野菜、全粒穀物、それに岩塩があたり前の食事になって、少しずつ出て行ってくれたらうれしいな。

5/18
宅急便が来て、ハンコを持って出たら、スマホを渡されて、「ハンコじゃなくて、こちらにサインしてほしいんですけど」と言われてビックリ。戸惑っていると、「指でサインできるんで」と。え~と思ったけれど、仕方なく人差し指で書こうとすると、うまく書けず…(小さい画面で書くところも狭かった)。クリアボタンを押して、やり直し。カタカナでいいです、って言われて、なんとかカタカナでフルネームを書き終えました。ハンコか、紙にサインではダメなのか聞こうと思ったけれど、そもそもそういう用紙自体を宅急便の若いお兄さんは持っていなかったし、お昼時で急いでいたので、そのまま荷物の受け取りを終えました。でも、なんだかその後切ないような気持ちになってしまいました。以前もお店でタブレットに指でサインをするよう言われたときに、なんで指で?と思ったことがあったけど、それについては、今度からそのお店では現金で買い物をするなど、他に選択肢がある。だけど、宅急便で、今後は受け取る際に必ず指でスマホにサインしなければいけない(選択肢がない)となると、そのシステムは結構危険な方向へ進んでしまっているのではないかと…。1番大きいことは、どんな人もスマホに触れ、否応なしに静電気を溜め込まされてしまうこと。そして、指でサイン、って難しいから、お年寄りや手の動きが思うようにいかない人などはかなり大変な作業だと思う。ハンコや紙にサインより、時間もかかると思うし(これは慣れだと言われるかもしれないけど)。システムのことは詳しくないけど、多分、そうやって電子化することで、ペーパーレス化もできるし、即時に受け取り完了の確認も取れて、全国の状況も一元化されて把握しやすいなど、会社にとっての利点は大きいのかもしれない。でも、肝心の利用者側のことを考えていないなといつも思う。いろんな人がいて、それが便利な人もいれば、不便な(苦手な)人もいる。
今は多くの人がスマホを持ち、スマホに慣れ、何の違和感も持たないのかもしれない。でも、どんな時も、少数派の人の気持ちは無視されていいということにはならないはず。なんだかこういうところも、LED化がどんどん進んでしまった時と同じ感じがして、危ういなあと思ってしまうのです。

5/13
もうずいぶん昔に、コンピュータは0と1だけで動いている、と聞いて、その時はふ~ん、と思っていたけれど、素数の日記にゼロ、という言葉が出てきて以来、そのことが度々浮かんできています。素数ではない、0と1だけの世界。そこに無有日記があり、仲間たちのHPがあるということは、ものすごいことなのかもしれないと、なんとなくだけど、その意味の大きさのようなものを感じています。

5/13
フォトブックの注文受付開始から、約1年半。たくさんの人とやり取りして、自分なりにいろんなことを感じ、学ばせていただく機会となりました。都合により、今月25日で受付終了(休止)となります。これまで、たくさんのご注文、ありがとうございました。あと少しですが、よろしくお願いします。

5/12
記憶の中の優しそうな笑顔、話し声。そういう姿形からはけっして判断できない事実がある。これまでいろんな「知る」を経験してきて、ビックリするようなことも、そのことで思考が動いたり、感情が出てきたこともあった。でも、もう何があってもそこに感情が揺れ動くことはなく、ただ淡々と受け止めて、自分なりの道を歩んでいく。

5/8
転生まで操られてしまうということは、身内をはじめとした周りの人間関係や環境すべてが、自由ではないということだから、私たちは何度生まれ変わっても、生まれながらに本来の自分を生きてこられなかったということなんだなあ。転生が本来になった時…想像もつかないけれど、なんだかうれしい。
ここ数日にも増して、今日は内側からの寒気やだるさなど、いらない物質がどんどん出て行ってくれてるかのような反応があるけれど、寒気が急な暑さに変わって、ふと湿度計を見ると、35%。湿気がないというだけで、こんなにうれしいとは。

5/4
この前仲間にも話したことだけど、みんなのHPを訪れる時、それぞれの仲間に会いに行くような感じでいます。そのことを話したら、仲間はそういう風に思ったことがなかったようだけど、みんなはどうなのかな。実際にはなかなか会えなくても、いつでもHPを通して会っている感じがして、共感したり、参考になったり、考えさせられたり、元気をもらったり。だからみんなのHPの存在はとても大きいです。私のHPにも同じような感じで会いに来てくれている人がいたらうれしいな。

5/4
身に着けるもののことばかりになってしまうけれど、下着って、綿100%のものって、意外と少ないのではと思います。(男性のシャツなんかはまだあるけど)特に、女性のブラは、構造上もあるのだろうけれど、ほぼないのでは。綿が全く入っていないものの方が多いかもしれません。そんな中、今日、ハーフトップという、スポーツブラに近いもので、綿95%のものがたまたま売っていたので買ってきました。これからの季節、汗を吸ってくれそうだし、ちょっとうれしかったです。

5/3
自分の想いを言葉や行為にしたとき、そんなの理想だよ(現実はそう簡単じゃない)とか、偽善だとか、思われてしまうことがあるようなのだけど、本当にそう思ってやっていれば少なくとも偽善じゃないし、理想がみんなにとって望ましいものなら、理想を口にしてもいいんじゃないかなと思う。現実は確かに厳しいけれど、だからといって、現実に流されて、長いものに巻かれていればうまいこと生きていけるというのも、なんだか寂しい。せっかくここにいるんだから、自分の想いはそのまま理想であって、そして理想を生きる(生きたい)。数の力はなくても、想いの力は数より強いと思うから。



4/29
今回のワークを経て、身体はいろいろ痛みが出てきたり、帰りには疲れや眠気が出てきたけれど、気持ちがどこかこれまでとは違って、うまく言えないけれど、いい意味でフラットな感じというか、余計な思考や感情が動かないというか…。そしてなんだかゆったりしているような、例えば食後のコーヒーを飲んでひと息ついているような感じ。これまでなら、今の状況では心配や不安が出てきていたかもしれないけれど、そうならないって結構大きいことかもしれない。
ある状況を目の前にして、自分は何ができるだろうとか、どうすればいいんだろう、って思ってしまったりして、でも実際には何もできなくて。でも、不安や心配が出てきてもおかしくない状況で、不安にならないようにしようとか、心配しないようにしよう、って無理やり思考で抑え込むのと違って、不安や心配が出てこない、っていうのは、その状況を固めてしまわないというところでは、何かをするということよりも、もしかしたら大きいのかもしれないなと思う。「自分にできること」って、形じゃないところでの部分が案外大きくて、少しずつでもいらないものを外し、本来の自分を生きる(少なくともそういう意思を持って)、その自分なりのプロセスを一歩一歩歩んでいくことなのかな。

4/23
GAPのアウトレットが割と近くにあるので時々行きます。今日はタンクトップがなんと300円!お店のお姉さんが「私も3色買ったんですよ!」と示してくれたのが、白とグレーと紺。私はその下にあったピンクと水色と白の3色を選んだ。そして半袖のTシャツはレモンイエローと薄いピンクとペールグリーン。レジでお姉さんは「このおばさん、カラフルな色ばかり買うなあ」って思ったかもしれないけど、全部キレイな色で、それだけでもなんだかウキウキしてくる。

4/22
昨日の大阪ワークの日は家族みんなが穏やかで和やかだった。前回のワーク前後から、不安や心配も力をなくしているよう。その分、外に出れば嫌われ方も分かりやすいけれど、自分の中で、少し芯がしっかりしてきている感じがする。それだけでもうれしい。

4/21
地球が宇宙空間の中で、自由にゴロゴロと転がる様子を想像してみると、なんだか地球はのびのびとうれしそうだなって。地球が自由に動けたら、人間もどれだけ自由になれるだろう。

4/20
子供の頃住んでいたところは、ソロバンがすごく盛んなところで、小学校の目の前にも珠算教室があり、多くの子供たちが通っていた。「(いとこが)買い物の時、レジより先に暗算で合計金額を教えてくれて便利」と叔母から聞いた母は、私にもソロバンを習わせるようになり、確か小学4年生頃から6年生になるぐらいまで通った。その教室では、渡された〇級用のノートに書いてある問題をどんどん解いていき、ノートが全部終わると、次の級、といった感じになり、3級ぐらいだったからはテストをし、合格するとまた次の級へ、と進んでいき、習う=級を進めていく、ということだった。
最初はどんどんできるようになることが楽しくて、級が変わるとノートの色も変わったりするので、それが楽しくて通っていたのだけど、1級になった頃、競技部というのにスカウトされた。よく分からないままに入ると、通常の教室が終わったあとの夜から、競技部のほんの4人ほどだけの教室になって、それまで何千円、とかの読み上げ算だったのが、いきなり何十億円になって、スピードもめちゃくちゃ早くてびっくりしたのを覚えている。県で行われる競技会というのがあって、そこで優勝争いをするための部だった。結局、競技会では、緊張してしまって、何とかスピードについていって答えが出た、と思ってもソロバンを揺らしてしまって答えを消してしまったり、指が震えてしまって伝票もうまくめくれなかったり、暗算も頭が真っ白になってしまったりで、本番にめちゃくちゃ弱く、競技部の中で、私はトロフィーとは縁がなかった。だんだん、ソロバン自体を楽しいと思えなくなって、その教室をやめた。
ソロバンをやめても、暗算はずっと得意で、いろいろ便利だったのだけど、MEに出会ってしばらくしたら、暗算が以前のようにはできなくなった。びっくりするほど。歳で脳が衰えたのかなとも思うけれど、当時の無理や頑張りの中、無理やりできるようにされてしまっていた脳が、当時のような使い方をできなくなったのかなとも思う。計算できなくなっても、脳が少しでも本来になっていったらいいなあ。

4/17
支えられ、守られている。とてつもなく大きく、限りなく。そう感じれば感じるほど、自分は何ができるだろう(どう応えられるだろう)、と思ってしまったりするけれど、まずは不安や心配から遠いところにいて、元気でいること、そして、自分の役割や自分なりの歩みを止めずに、進めていくことなのかなと思う。身近なところでの分かりやすく反応している様子と裏腹に、穏やかでHappyな、何気ない融合空間。引っ張られることがなくなってきて、それだけで何かが楽で。これからもっともっと楽でいられるのかなって、安心してもいいんだなって、緊張していた何かがほぐれていく。

4/16
ワークの翌日、雨でもないのに朝からビックリするほどの湿度の高さ(なんと69%!)にガックリしていたら、今日は朝からカラッとしていて、家中の窓を開け放していたせいもあるけど、32%とかになっていて、夜にはまた50%越え。自分を含めたこの家に住む人間、この家の空間、そしてこのあたりの土地もいろいろと調整中なのかなという感じがします。湿度の高い時は、特に理由もないのに、なんだか急に落ち込みモードになることがあったり、しんどくて動けなかったり。晴れてカラッとしていると、家事もどんどんできて、朝から元気に散歩をしたり。その差の激しさに自分でも「?」です。
ワークの時に時々出てくる、地面に引きずり込まれてしまうのではないかと思うほどの、鉛が入っているかのような腕の重たさと身動きの取れなさ。EWをしていると、家でもやっぱり少し出てくるけれど、かと思うと、いろんなことがどんどんできてしまうような、身体の軽さを感じる時もあって、やっぱり重力って、生命力なんだなあって思う。本来の重力になったら、身体の動きだけでなく、細胞の働きなども全然違ってくるのかな。ちょっと想像がつかないけれど、そんなことを思うとわくわくしてくる。素数を想うとうれしくなるのは、本来の生命力の記憶が反応しているのかも。

4/13
ムカデ…最近は見ないけど(気づいてないだけかも)、数年前には時々家の外壁に張り付いているのを見たり、排水溝から上がってきたのか、お風呂場にいたことも…。ずいぶん前のことになるけど、近所の人が2階で寝ていて、気づいたら顔の横に大きなムカデがいたと聞いてビックリしたこともあった。10年以上前には敷地内にヘビがいてビックリしたこともあったし、近くの田んぼでヘビが泳いでいるのを何度も見たことがある。最近は見ないけど、よく近所の猫が敷地内に入ってきていた時期もあった。ジメジメしているのも納得…。

4/13
近所の人が電気自動車(多分)に買い換えたようで、夜遅くに帰ってきて駐車する時、私の寝ている部屋のすぐ前に車が来るらしく、独特の音が不気味で毎晩ドキッとして目が覚めます。機械音とか人工的な音は現代ではたくさんあるけれど、生命力を奪うようなものの音って特別で、身体が自然と反応する感じで緊張してしまうのかもしれません。

4/13
うちの町内は創価学会の人達がたくさん住んでいます。(もともと学会員の人達同士で、ここに団地ができると聞いて一緒に引っ越してきたようです。)なので、公明党のポスターもあちこちに貼られています。でも、結構な頻度でキリスト教系の人達が勧誘に来ます。時々(先日も)天理教の人達が太鼓を叩きながら歩き回っていて、ポストにパンフレットが入っていました。真言宗などのパンフレットも時々入っています。ふと思いました。公明党のポスターが貼られている家にも、ほかの宗教の人達は勧誘に行くのだろうか?と。それぞれ、自分たちの宗教が1番いいと思っているから信じているわけだし、他の人達を勧誘するのだろうけれど、お互い自分たちの宗教に入ってほしいと思いつつ、同じ(勧誘する)立場の人の話に耳を傾ける心の余裕はあるのだろうか。もし、お互いの話を聞いて、相手の話に納得したら、改宗することもあるのだろうか…。個人的な感想だけど、宗教にどっぷり浸かっている人は、基本的に自分の話したいことだけを話して、相手の話を聞かない傾向にある気がして、そうすると、お互い信じているものがあるという共通点はあっても、話は平行線なのかなって。もし、他の宗教の人達のことを尊重できないとすると、彼らがよく口にする、「平和」や「幸せ」というのが自分たちの宗教を信じる人限定で、みんなのためのものではないように思うのだけど…。
「信じる者は救われる」っていうけれど、信じても信じなくても、みんなが平和で、幸せでいることを基本とするのが本当の宗教なのではと思う。

4/12
あなた(みんな)のために…と言われると、誰もそれを否定できないのだけど、そう言って人のために何かをしてあげているという形をとりながら、実は自分の思い通りに事を運ぶのがうまい人。そんな人に何かをしてもらうのを断った時、態度は一変して、とても怖い人になる。

4/11
そういえば、猫の糞(正確にはジャコウネコが食べたコーヒーの実が未消化で出てきたもの)から採られたコーヒー豆っていうのがあったな。世界一高価なコーヒーだとか。美味しいのかもしれないけど、やっぱりいろんな意味で飲みたくない。

4/11
例えば、会社や学校、その他のコミュニティなどでも、そこで誰かに認められたり、人と競って優位に立ったとしても、そこを一歩離れ、そのことを知らない人たちの中にいれば、その人はすごい人ではない、ただの人としか見られないわけだから、人との優劣を感じることで生まれる優越心って、すごく限定的なものだなって思う。容姿にしても、時代や国(場所)によっても「キレイ」の定義も変わってくるし、自己満足の部分も大きいような気もする。
お金は世界共通で、ないと生活に困るから、ある方がいいけれど、あればあっただけいい、とも思えなくて、多く持ちすぎていると、お金絡みでの人間関係のトラブルも起きやすいようだし、ものすごくあたり前だけど、お金(やいろんなもの)を持っている人が偉いわけではないし…。
人はつい人と比べて上か下か、ってことばかり気にかけて、上だと思えば安心し、下だと思えば落ち込んで、を繰り返してしまうけれど、優越心を感じる時、必ず劣等感もそばにいて、そのどちらにいることも、心の平穏とはかけ離れたところにいるのだから、幸せとは言えないなと思う。それぞれが人と比べることなく、自分なりの場所で、自分なりにできることをしている時、調和あるやさしい風景が生まれる気がする。その時、その人は自分のいる場所で最高に輝けるのかなと思う。

4/10
何かあると、そのことばかりに意識が向きがちだけれど、それでも自分なりに表現し続けていこうと思います。歩みを滞らせず、表現していくことで、それぞれの場で表現してくれている仲間たちと一緒に大きく回転していけるような…。うまく言えないけれど、今この時に歩みを滞らせちゃいけない気がして、具体的に何というわけではないけれど、何かしら動き続けていたいと思います。

4/9
教えてもらったお寿司屋さんに入ったら、本当にピンク岩塩が置いてあって、すごくうれしかった。うれしくって、家族と2人でガリガリとミルで挽いて、全部岩塩で食べました。(最初から岩塩がかけられているネタもありました)お寿司を食べるといつもお醤油のせいで、異常に喉が渇いてしまっていたのだけど、今回はそんなこともなく、それから、いつもよりゆったりと食べることができたな、と思いました。岩塩があるだけで、なんだかうれしくて、空間がやさしくなるよう。そのことになぜかとてもホッとしたのでした。

4/7
インターホンが鳴って、受話器を取ると、「〇〇です」と知らない人の声。とっさにぞくっとした感じがして、内容はよく聞こえなかったけれど、宗教関連の話だとすぐ分かった。なんでだろう、宗教の勧誘の人って独特で、信じてる対象は違っても、どの人もどこか現実世界にいないみたいな話し方をする。自分だけの夢の世界にいるような、それでいて、まとわりつくような話し方。声で病まされる、ってことってあると思うけれど、それは宗教関係の人だけでなく、電車に乗っている時やカフェにいる時、スーパーなどでも、この声、って思うことがある。ただ知り合いの人と話しているらしい声でも、その声がこちらに超音波のように届くことで、不調の原因を流し込まれているような。今は後々まで影響を及ぼすことはあまりなくなってきているように思うけれど、超音波なのかなと思うような声はなるべく耳にしたくないなあと思う。

4/5
子供の頃から病気がちで、とにかく病院や薬と仲が良かった(半ば強制的)。MEと出会って、薬になるべく頼らないようになり、その必要もあまりなくなったけれど、現実として、人が薬や病院を必要とすることはあるし、それはやむを得ない場合もあると思う。ただ、病院側(医者)のスタンスとして、病人(病気)がなくなることを本当に望んでいる人はどれくらいいるのだろう?と思う。病院へ行き、診断され、病名が付くと、この病名にはこの薬です、と、薬が出され、それでよくならなければ、今度はこっちの薬、とさらにきつい(体に負担のかかる)薬が出されたり、薬が増えたりする。それでも悪化すれば、今度は手術で、悪いところを切り取ることになる。それはマニュアル化されていて、この病気はこういう経過を辿るから、こういう治療をする、というふうに決まっている。人はひとりひとり違う(状態も、病気に対するスタンスも)はずなのに、病名で括られ、決められた方針以外の自由(意思)は、ほぼなくなるように思う。もちろん、命に関わる場合は、まずは危険な状態を脱することが第一だけれど、そうでなくなったら、患者の体や金銭的負担を考え、治療をできる限り減らすことや、自然治癒力を高めることに意識を向けてもいいのではないかという気がする。今は多くの病院がLED化されてきているし、待ち時間も長い。弱った体にさらにダメージとストレスを与えることになる。それでも病院に人が溢れているのは、みんながそれだけ病院に頼っている(必要を感じている)のだけど、結局対処的な治療では一時しのぎにしかならず、原因は残ってしまっていることを表している。同じ病気になる人たちは、その病気固有の原因同士が繋がっていて、同じような症状になってしまうのだと思う。そこに、病人がいないとお金がもらえない病院側も加担している。(その原因を浄化することは、病院は望んでいない)
どうしてもやむを得ず、という場合を除いて、極力、薬や外科的な治療に頼らず、本人の自然治癒力を高めることを大切にするという姿勢の病院や医師が増えれば、この国の医療費問題や、医師や看護師不足の問題も、ずいぶん改善されるのではないかと思う。

4/4
また素数のことが無有日記に書かれていて、なにかホッとするような、うれしいような感じがして、同時にまた新たな始まりのような気もする。

4/4
本当は何も分かっていないのに、いかにも何でも分かっているかのように、言葉だけでうまくやり過ごしてきた人は、いろんなことを表面的にしか捉えられず、無責任な発言を繰り返す。薄っぺらくて中身がないことをごまかすために、言葉に頼る、そんな人を、何も知らないようでいて、すべてを知っている素朴な人(たち)が、言葉ではないところで包み込んでくれている。

4/2
風はちょっと冷たかったけれど、久しぶりに、最近できていなかった家事を朝からいろいろやって、それから散歩へ。桜の木がどんどん減っているけれど、残った木々は傷つきながらも、きれいな花を咲かせてくれていて、ちょっとほっとする。ギリギリまで受容してくれている自然界、これ以上壊れないうちに、原因を変えたい。このきれいな桜を未来の風景にも繋げたい(届けたい)。そんなことを思いながら歩いていると、風が和らいで、太陽の陽ざしがポカポカと身体を温めてくれた。

4/2
ある選択をした。自分の中でも、なんとなく近いうちにその選択をすることになるとは思っていたけれど、予想以上に早くそのタイミングがやってきて、そのことにまた不安が浮き上がってくる。でも、2つの道があるとしたら、今回選択した道が本来だと思えるし、それを選択できたことの安心感もある。ただそれは、一般的にはあり得ない選択で、本来ならば一番応援(理解)してほしい人の怒りを買ってしまい…難しいなあと思う。
物事の原因を見ずに結果だけを見て、その結果だけをなんとかしようとするのが世の中一般の常識。でも、目に見えない原因を変えずに結果がとりあえずなんとかなったとしても、原因がそのままならば、また形を変え、病気や事故、問題事として目の前に襲い掛かってくる。ならば、その原因が力をなくし、2度と同じような経験をしなくていい道を行く。厳しいけれど、それが無有日記と共に歩む自分の選択なのだと思う。



3/29
安心したり、希望が見えてくると、そうはさせない、という力がしつこく働く。せめぎあい、引っ張り合いのような、見えないけれど、そういう意思の力関係のようなものが、その時々で現象として現れる。自分の中でもまだ揺れ動くものもあるけど、すべきことが分かっているから、淡々とやっていく。何も望んでいない。ただ普通に、平和で、健康で、元気に暮らしたいだけ。ただそれだけのことが難しくなってしまうのだとしたら、その原因をどこまでも浄化していく。だから、何があっても歩みは止めない。

3/28
大事なものを守るために、なんとかしなきゃ、って力が入りすぎて、自分の重さが本来への自然な流れを滞らせてしまっていたことを感じたこの数日。いらない感情を伴う思考も、物事に取り組む姿勢も、どこか不自然で、自他共に負担を生じさせてしまっていたよう。そういう時はそれに見合った現実が目の前にやってきます。一旦、それらの感情や姿勢を白紙にしよう、って思えたタイミングで、大きなサポートの中、動いたものに、いろんなことを見つめる機会をもらいました。
こういう時にこういう思考や感情が働いてしまう、ということや、頭ではわかっているつもりでも、(不安や怖れから)まだまだ世間一般の常識というところから自由になり切れないでいることなど、余裕がなくなってしまった時の自分はひどく弱いなって。ため息が出るほど情けないし、恥ずかしいけど、これが今の自分。まだまだクリアしなきゃいけないこともあるけど、その時々で自分がどうあるかというのは、やっぱり大きく、それによって引き寄せる未来(道)は違ってくるのだろうと思います。

3/24
ある処方箋をしていたら、ワークの時のように、内側から寒気が出てきて、そのまま眠ってしまい、暑くなって目が覚めた。ふと湿度計を見ると、除湿機をかけても見たことのなかった20~30%台になっていてビックリ。寒気と一緒に私の中の湿度も出て行ってくれたのかも。

3/24
どうしてこういうことが起きるのだろうという出来事の元には、必ず猫脳人の重たい感情がある。

3/19
とても重たい話になるけれど、小学生の頃、早朝にたくさんのカラスが一斉に異様な鳴き方をして目が覚めたことがあって、その瞬間、直感的に、近くで誰かが亡くなったと分かり(感じ)、親にそのことを伝えた記憶があります。その日のうちに、本当に近くの知っている人が、悲しい亡くなり方(理由も含めて)をしたと分かり、子供なりに、とても悲しい記憶として残っています。人はいつかは身体を終える時が来るけれど、本来のその時は、ごく自然なこととして、悲しみを伴わなくていいものだと思います。そこから遠く離れた亡くなり方を喜ぶかのような、カラスの鳴き声は、一瞬にして、人を緊張させ、不安にさせ、希望を奪う。今となっては分かりようもないけれど、その方の家には猫も深く関わっていたのかもしれない。本来の生を生きられるはずの人が、夜行性動物や同質の人間のために辛い思いをしたり、長生きできないなんて、あってはならないことだから、そうじゃない道を行く。道のりは厳しくても、無有日記のある今は、その道を歩むことができるのだから。

3/18
悲しいのは、無意識に自分を通るものが、あってはならない風景の負の原因として、そこに加担してしまうこと。けっして望んではいないはずの現実、でも、自分の中に通してしまうものがあれば、それは自分にも責任があるということ。そのことで自分を責めたり、その現実に対して、そうじゃないつもりでも、どこか被害者意識を持ってしまったり、そうしかできないでいたけれど、それは現実をさらに重たくしてしまうだけだから、ただ現実を受け止め、やっぱりその中で自分なりにできることをする。それしかできない。

3/16
地球の7割を占める海。その海が本来になれば、想像はつかないけど、地球はすごく大きく変わるんじゃないだろうか。海の仲間たちも、もっと元気になって、その海の仲間たちに支えられ、私たちも、もっともっと元気になって…そうやってどんどん循環していけるのかな。そのことを思うと、何かとてもわくわくした気持ちになる。

3/15
厳しい状況の中にいると、わずかでも好転していると思えると安堵し、悪化に向かえば不安が力を持つ。その繰り返しの中、次第に自身の感情の揺れに、心身共に疲弊していく。現実はなかなか厳しいものがあるけど、疲弊しないためには、その状況にいても、そこには居続けないことなのかなと思う。
何があってもめげない(一瞬めげるけど)こと、それにはアホでいるってけっこう大事なのでは。どうしてもお気楽ではいられない時もあるけど、ふとそこから抜けられる時が必ずあって、そういう時は何か違う動きを積極的にしたりして、その時間を楽しむ。そんな時間を過ごすことで、また厳しさと向き合う勇気が湧いてくる気がする。

3/14
今日、初めて入った雑貨屋さんで、猫グッズがあまりにも多いのにビックリ。ありとあらゆる猫グッズがあって、あらためて日本人は猫が好きなんだなって思いました。少し前に行ったお店には、普通の猫グッズのほかに、招き猫が大小様々に並んでいて、その横にフクロウがあって、幸運グッズということなんだろうなと。どちらも早々に出てきたけれど、猫カフェや駅長を猫にしたりと、集客のために猫を使うことも日本人の特徴なのかも。(最近では海外でも日本の猫カフェを参考にし始めているよう)猫はかわいいという大前提で作られる(売られる)たくさんの猫グッズは、あたり前のようにいたるところに居場所を確保しているから、まずは知った人たちからその巧妙な罠から離れること、そして知らないうちに受け、そして通してしまった影響を力なくさせることが大事なのだろうと思います。

3/14
他の人もやっているみたいだけど、私もしばらく前に遊び心でブラック岩塩のペンダントを作って身に着けています。ブラック岩塩の塊を程よい大きさに割り、穴を開け、手芸用のワックスコード(コットンの細い紐にワックスでコーティングしたもの)を通してできあがり。タガネで割ると、岩塩の性質で割とまっすぐに割れるので、角が痛いかなと思って少しやすりをかけたけど、時々握ったり、服の中に入れて、直接肌に触れるようにしているので、いつの間にか角が取れて丸っこくなってきました。もともと日曜大工的なことが結構好きで、家にはいろいろ工具もあるので、あっという間にいくつかできました。形もまちまちで、ブラック岩塩もパキスタン産とインド産では色も随分違うので、それぞれ個性的でおもしろく、着けていると、いつも岩塩と一緒な感じがして、なんかいい感じです。

3/12
ある医療関係者の人に、「健康にも関わることだから、医療関係者の方にも見ていただきたくて」とLEDフォトブックを渡したところ、映像に驚きながらも、「なぜこれが医療(自分の仕事)と関係があるのか」と質問された。LEDを浴びたことで、果物や野菜が変質してしまうなら、当然人体への影響を疑ってもいいと思うのだけれど…。やっぱり多くの人達は、果物や野菜、木々や街並みが傷つき、壊されても、そのことは、どこまでも自分とは関わりがないこととして切り離せるんだなと思ったけれど、同時に、医療に携わっていながらも、本当に人々の健康に関心がある人は少なく、結果としての治療(薬)には詳しくても、病気にならないためにはどうすればいいか、何に関心を持つべきかというところまでは意識が向かないのだなと思った。
人は、想像力を働かせることができるはずで、その場合の想像力は不安や心配と結びつくそれではなく、地球本来が元気になるための知恵に繋がるものでありたいと思う。

3/11
大したことをしていないのに、朝から疲れがひどくて動けない日もあれば、前日は結構疲れたはずなのに、朝から1日元気で、あれこれ動いても疲れない日もあって、今日もそんな1日。何日分かの用事を1日で済ませてもまだ動けそう。本当はこんなもんじゃなく、もっともっと元気なんだろうな。
日常生活の中で、こういう時にしんどくなる、というパターンがある程度分かってくると、その手前でできるだけそういう状況と違う動きをすることで、ひどい状態に陥らなくてすむようになる。やむを得ずそうできない時でも、その時々で違う選択をすることで、以前より長引かずにいられるよう。
受容するって、あたり前だけど、諦めるということとは違うから、現実を受容しながらも、その現実をひっくり返す時が来るのを諦めはしない。悔しさ(怒り)とか、悲しさ(切なさ)とか、不安(心配)とか、なくてもいい感情と向き合い、手放すことをひとつひとつ。そして、ここにいるからこそできることを最大限に。

3/7
フォトブックの注文がまた続くようになったなと思うと、自分の縁でもフォトブックがまた流れ出す。やっぱり何か連動しているんだなって思う。
いろんな人とやり取りする中で、短い言葉でも、その手前では思考が強く働いて、いろんな要らないものがくっついてこちらに届いているのを感じたり、長くても、その人がふと感じるままを言葉にしてくれたんだなって感じる時もある。コミュニケーションって、やっぱりエネルギー。あれこれ考えながらではなく、お互いにふと感じるままの想いが響きあうと、そのあとも、心身共に軽くいられてうれしい。

3/4
岩塩のお店の人とまたいろいろと話す機会があったのだけど、今年に入って、テレビや雑誌などで取り上げられて、ちょっとした岩塩ブームになっていて、とても忙しくなってしまったとのこと。(「無有日記」のテーマに取り上げられるものは、世の中が反応しているのか、タイミングよくメディアなどでも取り上げられることが多いなと思う。)特に食べものや体操など、健康に関するものが次々とブームになっていると思うけれど、本当にそれが効果のあるものなら(良いものなら)ずっとそれを続ければいいわけだから、ブームはそうは起きないと思う。でも、それだと儲からなくて困る人たちが次々とブームを作り、それに乗っかる人たちに支えられる現実があるのだと思う。テレビや雑誌の特集などで、新しいテーマで健康に関わるものを取り上げると、きっと視聴率が上がったり、売れ行きが良かったりというふうに。(ただ、その取り上げられる食品だったりも、例えばサバ缶がいい、と取り上げられる裏には、缶詰業界がメディアに何らかの利益を与えて、ブームを作っている、というようなことがあるのでは、と思う。)
岩塩は、出番が来るまでずっとそばで見守っていてくれたかのように、すっと生活に溶け込んでくれて、今ではなくてはならない存在となっている。それもごく普通に。決してご利益的な発想が近づけないから、単なるブームでは終わらない。

3/3
ふと感じたことが無有日記にタイムリーに書かれていて、ああ、今はそういう時なんだなと、自分の体験を通して確認させてもらっているよう。音の送り手たちとの融合をもっともっと深めて、自身の原因を高めていきたい。

3/2
先日、化学物質過敏症の人達の様子をたまたまテレビで目にしたのだけど、かなり生活が大変そうです。農薬はもちろんのこと、建物の接着剤、建材そのものなどに含まれる化学物質をはじめ、洋服の柔軟剤やタバコなど、あらゆる化学物質に反応して、頭痛がしたり、顔がただれたようになったり…。対処法はとにかくそれらを避けることだけど、現代の生活では、それらを完全に避けることはなかなか難しいよう。その様子を見て、その人達はLEDは大丈夫なのだろうかと思いました。私自身、タバコはとても苦手で、カフェなどで吸っている人がいると、すぐに喉が痛くなり、それは帰ってからも続いたりするし、近所から漂ってくる柔軟剤の香りも結構きつく感じます。以前、実家に泊りがけで行って、衣類を洗濯した時、その匂いに気持ち悪くなって、家に帰って何度か洗わないと落ちず、以来、石鹸を持ち込んで手洗い(洗濯機にも染みついているので)するか、家に帰ってきてから洗濯するなどしていました。私はそれで体調を崩すというところまではいかないけれど、LEDに反応する人たちは、タバコや柔軟剤、化学物質の匂いなどに敏感な人が結構多いのではと思います。化学物質過敏症の子供は、学校で友達の服に着いた柔軟剤や、友達の親が吸ったタバコの匂いにも反応して熱が出たり、鼻血が止まらなくなったりしていて、そのことをその子の親がクラスで説明していました。同級生の中にはそれまでズル休みだと思っていた子たちもいたみたいだけど、事実を知って、ここからどうなるのかなとちょっと気になっています。友達が具合が悪くなって学校へ来られなくなっているから、柔軟剤を使わないでって、お母さんに言ってくれるだろうか。お父さんの吸うタバコの匂いがボクの服について、その匂いで友達が熱を出すから、お父さん、タバコを吸うのをやめてくれる?って言うだろうか。そしてもし、そういうふうに子供たちから聞いた親たちは、どう答え、どういう選択をするだろうか。LEDのことにしても、化学物質のことにしても、基本は相手の気持ちに立って動けるかどうかな気がします。それがあることで辛い思いをしている人がいると知った時、でも自分は平気だから、みんなもやってるから、なんで自分がわざわざその人(少人数)のためにやめなきゃいけないの?ってなってしまうのか、それとも、せめてここでだけでも元気でいられるといいよね、って、そのためにできることをしようとするか…。そういう小さなところから動きができることは、LEDをはじめ、身体によくないのにみんながあたり前に使ってしまっているいろいろなものが見直されることに繋がるのではないかと思います。

3/2
いろいろな経験をし、いろいろなことを知る中で、中庸ということが、自分なりにまた深く響いてきます。どちらでもあり、どちらでもないという感覚は、自分の中で、より幅と深みを増し、たとえどんな存在であっても、目の前の人を生かし(変化に乗せ)、同時に自分や大事な人を守ることができるよう、自分を強くしてくれる気がします。隔たりを持っていては、とても縁ある人たちを包み、生かすことはできないから、ただ、事実を受け止め、その上で、今この場所にいる自分だからこそできること、すべきことを淡々と。そのことをすでに分かっているからこそ、そのタイミングが来るのだろうと思います。知ることで何かが変わるわけではないけれど、知ることで深い安心感の中、自分の中の芯がどこかしっかりするよう。人間的な部分で、身近な人を大切にするということと同時進行で、違う自分が、もっともっと回転して、生命本来の仕事をしたいとウズウズしているようです。

3/1
ねこの日記」。一見ほのぼのしていてかわいい。でも読むと(猫好きの人にとっては)強烈。。ただ、猫好きと思っている人が読んだら、どこかが楽になって、実は猫好きと思い込んでいただけだった、ということに気づくかもしれない。

3/1
仲間から、市内に岩塩のお店(倉庫)があることを教えてもらい、電話でいろいろお話したところ、小売りのお店ではないのだけど分けてもらえることに。パキスタンの人が現地で自社工場をやっていて、そこから直輸入なので、これまで買っていたより安く買えてうれしい。ハート形や丸、ピラミッド型などの置物もあったので、いくつか買ってきました。今度はもっといろいろ買ってこよう。岩塩って、食べても、身体につけても、置いてあるだけでもうれしい。もっともっと岩塩と仲良くなりたいな~。



2/26
相手に依存させるということは、相手の人が自分で考え、判断し、自分の力で解決できることを応援するのではなく、自分に頼らせてしまうことでその機会を失わせてしまうこと。助け合うのと依存するのは違うという、あたり前のことを伝えられなかったかつての自分が、若い頃の苦い思い出と共に浮かんできました。しなくてよかった経験もいっぱいあるけれど、それも含めて自分を成長させてくれる機会だったと思います。

2/23
周りに揺れ動かず、ただひたすら原因を生きる。脆さの裏返しの強気の姿勢ではなく、関わる世界や人を包み込める、強さとしなやかさを持てたら…。

2/22
なかなかタイミングが来なくてHPの移行ができなかったけれど、ふとやってみようと思うままにやってみたら、すっとスムーズに移行できました。新しいアドレスは、いつも太陽がそばにいてくれるようでうれしいです。

2/21
いわゆる貴金属というものには昔からあんまり興味がなくて、若い頃はプレゼントされた指輪とかしていたけれど、ちょっとしたファッションの一部でしかなく、特にそれらに価値を置くことはありませんでした。結婚指輪もいつしかしなくなって、初めて外した時、なにか解放されたような、指だけでなく、全身が自由になった感じがしたのを覚えています。そういうものから縁遠い今、あらためて貴金属とか宝石、ってなんだか不思議な言葉だなと思っています。貴金属の反対語に卑金属、という言葉が存在しているのをたまたま知って、さらに違和感を感じました。金属や鉱物の中に特別な価値を置くことで、これまでどれだけの犯罪(争い)が起きたり、人々の否定感情の元になっているのだろう。金塊・ダイヤモンドなどそのものに対してや、金(銀・プラチナ)の投資などといった形で、人間の欲が絡んでしまうというのは、地球には元々ない性質のものだなと思います。もしかするとそれらはすべて、元々地球にはなかったものばかりかもしれない。としたら、それらを身に着けることで、知らないうちに何か動きを抑え込まれて(縛られて)しまっていることもあるのかなと。地球本来の元素はすべて地球そのものであり、地球の生命を生かすためにあるもので、所有欲(優越心)を満たすためにあるものは、調和そのものの地球には似合わないなあと思うのです。

2/19
今は事件や事故、病気などがない限り、人の命が奪われることはないけれど、少し前の時代までは、人の命がとても軽く、ちょっとしたことで簡単に奪われてしまっていた。それが難しくなった今、直接ではなく、その原因を作ることで、非生命の意思を持つ存在達は、誰にもわからないように人の命を奪っている…ということは、ほとんどの人は思いもしないので、「運が悪かったね」という言葉で片付けられてしまったりする。でも、本当はそうじゃないこと、本当は事件も事故も病気も、全部なくてもいいものだと知ったうえで、ふとニュースなどを目にすると、その背景にどれだけ大きな目に見えない力が働いているのだろうと思います。中には自分の身体(命)を使って、その力に加担(加勢)している存在もあるのだろうけれど、いずれにしても、私たちはずっと事件、事故や病気があるのがあたり前という中で何十年か生きてきてしまったので、まだ一般的な世の中の価値観から抜け切れない部分があるのかもしれないと思います。そしてそれは不安と繋がっているとも。そこからどれだけ自由でいられるかが、新たな原因を引き寄せ、望ましい未来へと繋がるカギとなるのかもしれません。

2/17
地殻も地表も、大気もすべて地球本来のものではなくなっていれば、たとえ健康な心身を持って生まれてきたとしても、その中でただ生きているだけで病んでしまう。呼吸をすれば肺の中に本来ではない酸素が入ってくるし、身体の中に生命本来ではない物質が流れれば(廻れば)、すべての細胞は辛さを覚えながらも受容し、それを普通のこととしてしまうしかない。その度合いは地球上でも様々で、非生命的なそれが色濃くある場所では、静電気も停滞し、気温の低さと湿度の高さがその土地の気候として定着してしまうのかもしれない。この土地に住むようになって、竜巻が起きるほどの春先の暴風と、寒くて湿気が多く、カビの生えやすさと、あり得ないほどの結露にビックリしてしまったけれど、いつしかそれをこの土地独特の性質だと諦めていました。それも、ようやく変化の波に乗る機会がやってきてくれたのかなと思います。この季節に、加湿器ではなく、除湿器を使わなければいけないほどの我が家のリビングも、今日はいつもより過ごしやすい気がします。

2/15
時々思うことだけど、夜行性動物をはじめ、非生命の意思を持つ存在達を「敵」とは思えなくて、だから拒絶するとか、毛嫌いする(怖がる)とか、そういう感覚はあまりないかなと思います。(種類によっては苦手なものも…)例えば、もし猫が自動車事故にあって死んでしまったのを見れば、やっぱりかわいそうだと思うし、ただそこに変な情が絡まなければいいんじゃないかなって。今存在していることは事実だから、要はその存在達から影響を受けないよう、できる限り接点をなくし(距離を置き)、そのうえでその存在達が力をなくす道を行ければいいのかなと。ゆくゆくは、その動物たちは地球から姿を消すのかもしれないけど、それまではうまく住み分けができればいいのだろうな。

2/15
自分も周りも元気で、何の問題事もなく、毎日好きなように生きられて、それで幸せ…なら、無有日記と縁する必要はなくて、「どんなに社会が病んでも、心ある人たちが辛く、苦しい思いをしていても、自分たちさえ健康で、何不自由なく、幸せに楽しく暮らせればそれでいい」という人達が圧倒的に多い中、このままじゃいけないと、ここにいる。辛く苦しい思いをしている人たちの上に成り立つ今の社会をこのままにしたい存在達からすれば、それを変えようとする存在はジャマでしかなく、いろんな形で動きを止めようとするのは当然のこと。だから、ここにいるということは、それなりのことがあることも含めて覚悟をしてきているのだと。今いる環境も、現実も、選ばされたとしても、それもすべてどこかで分かっていて、それでもその必要性からここにいる。そのことに一切抵抗せず、すべて受容し、今自分がいる場所で精一杯できることをする。ここからが本番。

2/14
ワーク2日目の朝、電車を待ちながら、初日に教わったある場所のイメージをしていたら、太陽が光り輝いていて、思わず目をつぶって太陽の方へ顔を向けると、頭と顔がどんどん熱いぐらいになってきました。あったかいな~、ストーブいらずだな~、なんて思いながらイメージし続けていると、太陽と頭、そしてイメージした場所がひとつの線で繋がった感じがして、そのうちだんだん自分の身体が太陽の方へ吸い寄せられるような感じと共に、身体がどんどん消えていくような、太陽と一体になったような、そんな不思議な感覚がありました。それはとても穏やかで、心地いい感覚でした。太陽にサポートされながら、太陽と一緒に歩んでいるような、そんな今にいられることは、とてもうれしいことです。

2/13
痛みや不調を抱え、病院に行くと、その症状(現象)に合わせた病名がつけられ、そこから病気が始まる。いったんそれが始まると、検査や薬、時には外科的治療と、本人の意思は脇に置かれ、病院の思い通りに事が運ばれていく。けれど、その病気の原因には非生命的な意思を持つ存在(夜行性動物)がいて、形なきところでの働きかけが、その対象となった人の心身を蝕み続けているのだから、いくら薬で治療しても、一時的な対処にしかならず、原因はそのまま。事故や問題事も同じ。そのことを知る今だから、その原因をどこまでも浄化していく。薬や病院に頼らなくてもいい道、病気でいなくてもいい道があれば、たとえそれが厳しい道のりであっても、その道を行く。そして、非生命的な意思を持つ存在達が力を失くす道を歩んでいく。淡々と、でも覚悟を持って。

2/11
なんにでも言えることだと思うけれど、いい悪いというところで二者択一的に物事を考えたりしてしまうことで、余計な思考を使ってしまい、滞りの原因となる(つかまってしまう)ことがあるように思います。
例えばアルミニウムのことでも、いろんな食品の袋の内側に使われていますが、レトルト食品のように、そのまま熱を加えるものは避けた方が無難かなと思うけれど、基本的にアルミニウムが食品に直接触れるのではなく、アルミニウムの上にビニールコーティングされているものが多いように思うので、ただ食品が入っているだけのものについてまで、アルミだからよくない、となってしまうとしたら、それは少々過剰反応かなと思います。LEDの光を遮ってくれるという部分では、役に立つとも思うので、あまり神経質にならず、状況に応じて、なんでも柔軟に考える余裕があるといいかなと思います。昨日買った、おいしいコーヒーを飲みながら、ふと思いました。

2/9
自分が元気でいることで、周りの人たちも元気になったり、いろんな問題事(と思えること)も変化に乗せられるような、そんな原因を生きられたら…。そう思いながら歩んでいても、自分にその力がなかったり、それ以上にそうはさせないという強い力が働いたりして、時に予想もしないような現実と向き合わざるを得ないことがあります。これぐらいは自分でなんとかしなきゃ、という、変な思考(我慢)が働いて後手後手になり、物事をより大変な状況にしてしまい、周りに負担をかけてしまうことも、これまでに何度かありました。弱い自分を感じたり、反省や後悔、不安も出てくるけれど、そこに留まるより、今の状況を原因に変えて、少しでも、望ましい未来を引っ張れるよう、今自分にできることをしていくしかないと思います。非生命の意思によって引き起こされる人々の辛さや悲しみの風景は、永い間続いてきていて、それぞれ幾度の人生でも経験してきたこと。それを今回の人生でひっくり返すのだと思うと、今回の人生の出来事だけを切り離して見ることはできません。現実の中に入り込んでしまわずに、少しはその外側から見る余裕ができているかなと思えるのも、無有日記と共に歩んできたからこそだと思います。非生命的な力の正体が次々と明らかにされる中、そのひとつひとつと向き合い、浄化しながら一歩一歩歩んでいきたいと思います。

2/3
岩塩を摂り始めて、何人かの仲間たちがシミがなくなったり、ブツブツが取れたり、皮膚に何らかのうれしい変化が起きているけど、私は生命食を始めてだいぶ薄くなったものの、若い頃からたくさんあるシミには特に変化がないと思っていました。でも、昨日顔を洗っていてふと気づいたのだけど、小さく皮膚の盛り上がったシミが、取れたわけではないけど、盛り上がりがほぼなくなって、ずいぶんと平らになっていました。なんだか不思議。以前から代謝が悪いことは自覚していたけど、少しだけ、代謝がよくなったのかな。最近は化粧水もほとんど使わなくなり、食生活も、その他の色々な部分でも、どんどんシンプルになってきている気がします。

2/2
どんなに厳しいと思えるテーマであっても、それが目の前にあるということは、それを浄化すべき時にいるということ。そして、それを浄化できる今にいるということ。
今の環境がどうであれ、これまでの幾度の人生で共通の経験があり、同じく病んでしまったのなら、それは誰にとっても必要なテーマ。そのひとつひとつと向き合い、浄化していく中で、また新たな(本当の)自分と出会える。そんなうれしい時にいるんだな。言葉にしてもしなくても、何か優しい想いがいろんなところで行き交っているような。そんなうれしさの中にいる。

2/2
猫といえば、数年前のことを思い出します。いつもより遅く、薄暗い時間に犬の散歩をしていると、どこからか子猫の鳴き声がして、探してみると、小さなコンビニのビニール袋に入れられて、小さな子猫が草むらに捨てられていました。ビックリして、どうしていいか分からず、とりあえず家に連れて帰り、猫を飼っている仲間にアドバイスしてもらって、猫用のミルクを買い、飲ませました。でも、その猫を見つけてから、犬が異常なくらい吠え続け、家の中が大騒ぎになり、でも見捨てることもできず…。一時的に仲間に預かってもらったり、誰かに飼ってもらえないかと他の仲間に相談したりと、仲間も巻き込んでしまいました。預けていた仲間から猫を引き取った帰り道では、LEDの車の眩しさと激しい雨も相まって、けっこう大きな自損事故を起こしてしまい、今思うと、当時は相当注意力もなくなっていたと思います。自分が見つけた以上、自分で飼うしかないかなと思い始めた時、ワークがあって、ムーさんに相談することができました。そもそもその状況に出会うこと自体、あり得ないことのようでした。ムーさんのアドバイスで、結局私が飼うことはありませんでしたが、アドバイスをもらわなかったら、今頃どうなっていたのかなと時々思い出していました。変な例えだけど、もし、コンビニの袋にヘビが入っていたら、連れて帰ることはなかったはずで、産まれて間もない(2週間ほど)子猫だったから、放っておいたら死んでしまうし、かわいそうだし…という気持ちが働いたと思います。そういう見た目の分かりにくさという点では、ヘビやカラスとは全然違う上手さがあるのかなという気がします。当時の自分自身の動き(判断)のおかしさとともに、(せめて自分の力で生きられるようになるまで)自分が世話をできなかったことに、ずっとどこか無責任というような、負い目を感じていたけれど、こうしてみると、一連のことがなんだか納得できて、その時の選択に、ようやく安心できる感じです。



1/30
このところ、家族の用事で毎日のように出かけていて、それぞれの場所で出会ういろんな人たち。特にここ数日は、ちょっとほっとする出会いが多くて、何かが少しずつ変わってきたような。
身体が動かない、と思う日も、思い切って出かけてみると、意外と動けるようになったり、とにかく何も考えず動くようにしていることで、自然と何かが変わっていきます。いろんなことに意味づけせず、今目の前のことをそのまま受け止め、次へ行く。淡々と過ごしている中で、理解するまでもなく、その理由は自分の中に溶けていくような気がします。

1/26
ちょっと不思議な感覚だけど、いつも散歩をしている道で、ある場所に差し掛かると、急に太陽との距離が縮まった感じというか、太陽の輝きが増すように感じて、ホッとすることがあります。この辺りは高い建物はなく、何かで遮られるということがないので、そこまでの場所は、実は空気の質がなにかおかしいのかな、と思ったりしています。同様に、そう感じてしまう場所は、いつも風も冷たく、強く吹いている感じです。(もともとこの辺りは、風がとても強く吹くのですが…)ほんの短い距離でも、息のしやすさ(しにくさ)があったり、何も遮るものがなくても、太陽との距離を感じてしまったり…。空気(酸素)は見えないはずだけれど、その場所場所で、質が様々に違っているということがあるのかもしれません。そして、それはその土地の重たさとも繋がっている気がします。その違いが感じられたとしても、それをどうにかできるわけではないかもしれないけれど、その微妙な感覚があることで、不必要にそういう場所に長くいたりして、病んでしまうことを避けられるのではと思うから、いつも自分の中の微妙な感覚を大事にしていたいなと思います。

1/26
昨日、味噌汁のことを書いてから、ふと思い出した味噌のCM。味噌汁のことを「おみおつけ」っていうんだっけ。漢字で書くと「御御御付」だと、昔知った時、「御」が3つもつくなんて変だなあって思ってたけど、今思い出すと、なんだかちょっと気になる。

1/25
体調のせいもあって、ここ1年ほどは手ごねのパンを作ることから遠のいていました。(パンケーキは焼いていました)仲間たちも書いていたけれど、岩塩に触れてから、パンを焼きたくなって、また最近焼き始めました。といってもこねる時間はほんの数分、まとまればいいかなという感じで。いつもはレーズンを入れたり、クルミを入れたりするけれど、岩塩のパンはシンプルな味を楽しみたくて、ちょっと多めの岩塩を入れただけのプレーンなパン。ひとかたまりのまま焼いてから、スライスしてまたオーブンへ。カリッとして、サクサクで、トーストしただけで、何もつけなくてもとってもおいしい。小麦の味が引き立つ気がします。
岩塩生活になってから、自分では醤油や味噌、つゆの素etc.を使わなくなりました。元々味噌汁は普段から飲まなくて、家族が飲みたいときは作っているけれど、自分はたまにサバの味噌煮を作る時ぐらいしか味噌を食べることはなくなっていました。お刺身も私は岩塩、家族は醤油。料理の味付けは岩塩で、家族が醤油の風味も欲しがるかなと思うものについては、自分の分は岩塩のみで先に取り分けておき、家族の分は仕上げの香りづけ程度に軽く醤油を。それも最近はほぼ岩塩でOKみたいです。サバの味噌煮はサバの水煮(岩塩煮)に変わり、物足りない人は醤油をどうぞ、という感じになりました。でも家族もほぼそのままでいいようです。こんにゃくあたりから、(元々そんな感じだったけど)さらに家族みんなが同じものを同じように食べなきゃ、っていうのがなくなってきて、今はまずは自分が実践できていれば、家族は家族の自由でいいよね、っていう感じになっています。お椀や茶碗を使わなくなって数年経つけれど(今はみんなが何にでも使える食器を使っています)、これまであたり前に使ってきた、和風な感じの調味料や食材からも、ちょっと距離ができてきて、ますますこうでなきゃ、がなくなってきた気がします。

1/22
うちのだんなさんの会社は、前身が公社だったというのもあってか、社員はみんな自動的に自民党の党員ということにさせられ、会費を自動的に引き落とされるという、とても不自然な状態にあります。(だんなさんは自民党を応援しているわけではありません)そのことを知った時、やめられないの?と訊いたけれど、立場上難しかったようで、毎年「カンガエルカイ」という、何を考えるのかよく分からない名前で7000円が引き落とされるのを、納得いかないなと思いつつ、そのままにしているしかありませんでした。数年前、また思い切って訊いてみたけど、めんどくさいとかそんな理由で断られ…。でも、去年、引き落とされている「カンガエルカイ」の文字を見て、やっぱり、何の活動もしていないし、自民党を応援しているわけでもないのに、社員というだけで、強制的に数字の上だけでの党員になったり、会費を取られたりするのはおかしいし、気持ちがそうでなくても結果的にそのお金が資金になり、自民党を応援することになると思い、だんなさんにもう1度、退会できないか訊いてみました。そしたら今度はすんなり手続きしてくれることになり、結局は電話一本で事は済みました。でもその電話の時に、「退職されるんですか?」と相手の人に言われ、いいえと言うと怪訝な様子が伝わってきて、やっぱり普通は退職するまで自民党員でいることがあたり前という空気なのだと分かりました。
自分が働いているわけではないから、直接動くことはできないし、だんなさんも会社という組織で働いてお給料をもらっている以上、自分の意志を通すことが難しいこともあると思うけれど、退会できた時、なんだかとてもホッとして、楽になれた気がしました。いろんな形で繋がりを持たざるを得ないことってあるけれど、自分が感じるまま、できる限り動くことってやっぱり大事だなと思いました。

1/22
ずっと、カラスの姿をほとんど見かけなくなっていたのに、ここ数日はカラスがたくさんいて、すごい声で鳴いている。先日は100羽以上いるかという感じで、青空に渦巻きながら飛んでいて、まるで黒い雲のようだった。散歩をしていると、頭上の木の上にもたくさんいて、やっぱり鳴きながらグルグル回っていた。さすがにちょっと不気味。今日は1羽、ずっとこちらを見ながら「アッ、アッ、アッ、アッ、アッ、アッ」って、繰り返しすごい勢いで鳴いていた。なんだか威嚇されていたような…?これまでが変わっていく中、カラスたちも何か異変(居心地の悪さ)を感じているのかもしれない。

1/22
朝起きた時、今日は寒いな~と思って窓を開けると、車にも霜が降りていて、そういえばいつもなら、この時期は車が凍っていてドアも開かない、雨戸や窓も凍って開かない、というのが普通だなと気が付いた。今年はまだそれがない。午前中に散歩に行くとき、まだ寒いかも、と、スエットのパーカーの上からベストを着ていったら、すぐに「失敗した…!」と。暑くて脱いでしまった。1月にパーカーもあり得ないのに、暑いと感じるなんて、やっぱりこれまでにはないこと。今も部屋の暖房は切ってしまったのに、ちょっと動くと汗ばんでいる。今年の1月は気候も自分も初めてのことばかり。

表現した後、しばらくして、もう必要ないなと感じることが時々ある。その時はいろんな意味で必要性を感じても、表現したことで何かが変わり、その役割はもう終わったような。合ってるとか、間違ってるとか、ではなく、内容とも違ったところで自分なりに必要と感じること。そのことがいろいろ影響しあうから、責任も大きいけれど、やっぱりその時々感じるままに表現していきたい。

1/20
先日のワークで、会場がLEDになってしまったため、手持ちの蛍光灯のライトを持ち寄った時のこと。その前の週、お天気が悪く、夕方にはノートの文字もかなり見えにくくなっていたため、少ないライトで少しでも明るくするには…と、いろいろ考え、いろいろ用意し、早く来た数名であれこれ考えてセットしていたのですが、ムーさんが「明かりがあればいいんだ。前回と違う(状態)ならいいんだ」というようなことをさりげなく言われたのが、とても心に響きました。ついつい、いかに明るくするかというところに意識が向いてしまい、形や結果というところを大事にしてしまっていたけれど、形ではなく、違う(新たな)原因を創るということ。それはいつでも、何についても言えることで、形を整えること(行為)ではなく、原因を大事にするという、基本中の基本。ムーさんの世界にいさせてもらっていても、まだまだ余計な思考を働かせ、シンプルさを忘れてしまいがちな自分。そのことをあらためて感じさせてもらう機会となりました。

1/17
片づけをしていて、以前買ってほとんど使っていなかった制汗剤に「ミョウバン」の文字を見つけて、そういえば、ミョウバンって昔からナスや黒豆の色止め、ゴボウのあく抜きなど、食べものにも使われているけど、そもそもなんだろう?と、ふと気になって…。そこで初めて知った、ミョウバンの中身。「硫酸カリウムアルミニウム」ということで、アルミニウムが入っていました。ベーキングパウダーでアルミフリーのものを選んでいたけれど、そうでないものはこのミョウバンだったようで、菓子パンなどの膨張剤としても使われているそう。制汗剤も、科学的な物質はよくないからと、最近は天然のミョウバンを使っているものがけっこうあるみたいだけど、よく見たら、ミョウバン=「アルム石」って制汗剤に書いてあって…アルム石って、そのまんま文字にアルミニウムが入ってる(Alum)。天然成分だからいい、というわけではないんだなということが分かりました。身近なところでけっこう使われているアルミニウムや鉄、その他たくさんの本来でない物質。あまり神経質になって、あれもダメ、これはどうなの?っていうのはかえって危ないと思うけれど、ベーキングパウダーに普通にアルミフリーのものを選ぶように、口に入ったり、肌に直接触れるミョウバンについては、避けた方がいいかなと思いました。

1/15
岩塩があるだけでうれしい。食事の時はもちろん、お茶の時も、岩塩の粒を口に含んでは飲み、含んでは飲み、で、なんだか結構な量を摂っているようだけど、やっぱり不思議と喉は乾かないし、身体が欲しているまま、好きなだけ摂っています。先週のワークで、痛々しいほど荒れていた仲間の手が、1週間後に見違えるほどきれいになっていてビックリ。やっぱりお肌にはいいらしいので、別の仲間にもらったバスソルトを使ったら、お湯のトロンとした感じと、肌への優しい感じにすっかりはまってしまい、今日はブラックソルトをたくさん入れてみました。お湯はちょっと黒っぽくなったけど、肌がすべすべする感じで、毎年冬になるとかゆくなってついつい掻いてしまっていたふくらはぎも、かゆみが落ち着いてきました。こんにゃくの時もうれしかったけど、岩塩はなんだか世界が広がる感じ。いろいろと楽しんでます。

1/15
ずっと、どこかで「自分は何もできていない」という感覚というか、申し訳なさみたいなのがあって、何かの時に、ふと浮かんできていました。実際、自分のしてきたこと全て、ME(ムーさん)によってサポートし続けてもらって、なんとかやってきたことばかり。もちろん自分たちが健康になることや、これまでの価値観etc.から自由になることなどもとても大事で、少しずつその道を歩んできたけれど、それがそのまま地球の本来、というところには繋がらず…。それがようやく、ほんの細い道筋でも、少しだけでも、積極的にそこへと繋がる道ができた(作ってもらった)のかな、と思うと、やっぱりうれしい。とはいえ、EWのたびに、まだまだ反応がすごくて、実際は全然できていないのだろうけれど、それでももう、そんなこと言っていられないのだろうと。今、自分ができることがあるなら、淡々と、でもしっかりとやっていこう。

1/11
前回のワークで、またさらに深いところから出てくるもの(症状)。痛みとかしんどさの原因がどれほど蓄積しているのだろうと、自分でも呆れるけれど、通るべき道なら、まっすぐ通るだけ。
実践する中、これを(これさえ)すればいいとか、してはいけないとか、こうじゃなきゃとか…特に食関係の時にそういう思考が働きやすくなるような気がするけど、なかなか実践できないことだけでなく、特別、こだわり、ご利益的になってしまうことも、どこかMEへの抵抗があったりするのかなと思う。実践って、そのタイミングが来た時に、ごく普通のこととして、その人の歩み(健康)を応援してくれるもののような気がして、それを楽しみながら、普通にやっている自分がいればいいのかなって。そうではない時、本来の自分でないものがまだ自分の中にあるとしたら、それを見つめる機会になるのかな。それもまた実践のような気がする。

1/9
硫黄の香りのブラックソルトがお気に入りで、サラダなどにはブラック、料理にはピンク(白)、という感じで使い分けている。先日届いたブラックソルトにピンク(ローズ)ソルトとブラックソルトの成分表示が書かれていたのだけど、予想通り硫黄や鉄はブラックソルトに多く含まれていて、カリウムもブラックの方がかなり多い。一方、ピンクソルトはブラックよりカルシウムがかなり多く、マグネシウムも多い。ナトリウムはほぼ同じ。岩塩といっても、色によってこんなに含まれている成分の比率が違うんだな。今日は持ち運び用にブラックとピンクの粒を混ぜてみた。色々と遊んでみよう。

1/8
青空はとてもうれしいけれど、先日のワークのような天気が必ずあって、そうであるからこそ、さらにそれを上回るEWがなされて…地球にとって、太陽系にとって、さらには宇宙にとって…と、どこまでもそこに本来でない、浄化すべきものがあるのなら、自浄力に任せられる時まではそれが続くのかな、となんとなく。そう思うと、まだまだすべきこともたくさんあって、身の引き締まる思いがする。でも力を入れるでも、目先のことに揺れ動くでもなく、ただ淡々と歩んでいくだけ。

生命としての自分と、人間の自分。最近それが別々に感じられる時があって(以前はそれすらも感じられなかった)、人間だけをやっているように思える時、こんな自分でいいのだろうか、と思ってしまう。そんな自分を「生命を生き、人間をやる」というムーセンテンスが、十数年経っても、出会った頃と変わらず、そばにいて支え続けてくれている。生命がメインだってこと、忘れるな~、自分。

1/5
今日で3日続いた、雲一つない青空。毎日普通に太陽の下を歩き、毎日普通に過ぎていく。
いろんなところでLEDによって傷ついた木々の写真を撮ったけれど、そのうちの何本もが力尽きて消えてしまった。まだ頑張っている木々も、どれも傷ついていて、それでも受容してくれている。地球の生命たちみんな、受容してくれているけれど、それもいつかきっと、かつての元気な地球の姿を取り戻せると知っているから。特に何ができるわけでもないけれど、受容してくれている生命たちの切なる思いに応えたい。そのために今ここにいるのだと、歩きながらふと思った。

1/3
今日は雲一つない青空。太陽がまぶしくて、シャツ1枚で散歩に出かける。こんな1月って、これまでにない。
水素1から始まって、カリウムだったり、アルゴンだったり…ワークの度にその反応から、私の身体にはどれだけの地球にはなかった歪な物質が入り込んでいるのだろう、というより、ほぼそれらでできているのではというぐらいだけれど、こんにゃく(石灰石)に加えて、岩塩を取り始めてから、少しずつ身体の中から変わっていく感じがして、細胞がどんどん入れ替わっていってくれているのかな、と…。そうだったらうれしいな。
岩塩って、味はしっかりしているのに、たくさん摂りすぎたかな、と思っても、不思議なことに喉は乾かない。外食の時に、ちょっと醤油を使っただけで、あとでけっこう喉が渇いたりするけど、それは海からの塩を身体から早く排泄するための反応だったりするのかも(添加物のせいもありそう)。岩塩を摂り始めてから、唇の裏側(上下とも)が、なんとなく腫れているような、しびれているような感覚があって、実際にはそんなことないんだけど、口の中ってやっぱり海からの塩をたくさん取り入れてきた場所だから、敏感に反応しているのかもしれないなと思う。
たくさんありすぎて、どれも大事なEWと、毎日の全粒穀物食、プラス石灰石と岩塩。こんなに心強いサポートがある今だからこそ、そのことだけに頼らず、何度も伝えてもらった「どんな自分がそこにいるか」を忘れずに歩んでいたい。

1/2
先日のワークで、太陽のまぶしい光に温められた海の中で、海と一体となって漂うような、そんな感覚があった。その時ペアになった仲間も同じようなことを言っていて、かつて、本当にそんな体験をしていたのではないかなと思った。その時の海は太陽の光をそのままどこまでも通す、透明で、明るくて、まぶしくて、温かくて…とてもとても心地いい海。ずっとその中で海そのものとして漂っていたいような…。地球の海って、本当はどの海もそんななんじゃないかなって、ワークの時のリアルな感覚を思い出す。

1/2
今日出かけた先で、おばあさんが広い通りでエサを撒いていて、たくさんのハトが集まっていたのだけど、そこに3羽のカラスが紛れていた。そのうちの1羽と目が合って、お互いじ~っと見つめあった。そのカラスは目が離せないといった感じで、顔はじっと私を見つめたまま、身体だけ、どんどん後ろ向きになっていって、ちょっとおかしな動きをしていた。まだ目を背けられるところまではいかないけど、注目はされたよう。子供の頃に体験した、カラスとヘビそれぞれが関わるある強烈な記憶があって、それはいまだに、ふとした時に出てきて自分の心を固めてしまうような感じがあるのだけど、それらも癒される今にいるから、楽しみながら歩いていこう。そのうち、みんなが歩くとカラスやヘビが逃げ出す、って時が来るような…。

1/1
確かに、地球と太陽の大きさ、そしてその距離から言っても、赤道付近と、北極(南極)の太陽からの距離なんて、ほぼ違いがないと言っていいと思うのに、なんであれだけの温度差があるのだろう。まして、日本なんて小さな島の北と南でそんなに温度差があるのも、考えてみれば不思議なこと。それをあたり前のこととして、ずっと受け入れさせられてきたけれど、そんな嘘の現実が修正される始まりの時を迎えているんだな。氷で覆われた北極海。その海が本来になったら、北極はどんな姿を見せてくれるのだろう。


2018年の日記

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