つぶやき

~歩みの中で、体験したこと、感じたこと~



ずっと思っていることだけれど、何を書いているかは関係なく、その人の文章(エネルギー)に触れているだけで、なんだかホッとする、そんな存在がいてくれる。それはとってもうれしいことだし、そういう存在にとても支えてもらっているなと思う。(5/25)

マイペースって、本当はないのかもしれないな、と思う。全体の流れ(ペース)の中で、それぞれの個性での動きがあるとしても、全体の流れから外れて(無視して)の自分(だけ)のペースというのは、もしかしたら、自己満足の世界に繋がってしまうのかも。バラバラ(それぞれ)のようでいて、連動していると感じるのは、全体のペースの中での動きだからかもしれない。(4/10)

本来を喜ばない存在の意思が嫌がることをするって、行動もそうだけれど、例えばつい出てしまう自分の思考や、それに伴う感情が力をなくす、ということも大きいと思う。これまで無意識に出てきていた自分の思考や感情、と思っていたものも、そう思わされていたとすれば、出てきた時に「これは自分のものではない」と意識するだけでも何かが違うかもしれない。ただ、責任転嫁はしたくない。自分の中にあるなら、やっぱり自分に責任はある。でも、本来の自分のものではない…。ややこしいなあ…。(2020/2/16)



動きが止まりそうな時、そのことに甘えている自分を感じる。どういう理由があるとしても、どこかでそのせいにして動きが止まる自分をよしとしているような。それは結局、個人だなあと。何があっても、動きを止めてはいけない。その大切さを想う。(10/22)

何気ない文章でも、なぜかとてもうれしくなったり、温かい気持ちになったり、応援されているような気がしたり、自分自身を見つめる機会になったりするのは、その文章を書いている人のエネルギーが中庸そのもので、やさしさや、責任、力強さetc.に満ちているからで、それに自分が共鳴しているからかもしれないな、なんて思いました。文章そのものより、その行間にあるエネルギーを受け取り、自分も少しでもそうあれたら、表現している人はうれしいのではないかなと思います。(9/6)

誰かに何かを言われなくても、自分の状態も、すべきことも分かっていて、それでもただ、聞いてほしい時ってあると思う。でも本当はその手前で何かが始まっていて、言葉を必要としなくても、通じ合うものがあって、すでに何かが動き出しているような。傷の舐めあいや、ただの慰め、相手の気持ちを理解する、という次元ではなく、ただ同じ時空間を共有する中で、自然とお互いの何かが動き出すような、そんな関係性を育めたらうれしい。(8/19)

知識も文章力も足りなくて、とても同じように表現できないとしても、そこに書かれていることに共感することができるというのは、それだけで自分の中に何かが湧き上がってくる気がして、表現してくれたことがとてもうれしかったりする。自分自身、もう少し見聞を広められたらいいのだけど。(7/8)

自分の病みはもちろんまだまだあるけれど、そこに焦点を置きすぎてしまうと、何をするにも(何かができないことも)そのつもりもなく、病みを言い訳にしてしまいそう。病んでいても、病んでいなくても、どっちでもいいや、ぐらいのほうが、これから先へ進むには身軽に歩けるかも。(5/18)

勘違いかもしれないし、それでもいいんだけど、なんとなくしんどいなあとか、動きが止まりそうになる時、誰かがさりげなく応援してくれているような。勝手にそう思って、元気になって、また一歩。(5/5)

難しさはある。一筋縄ではいかないというか。でも、これをクリア出来たら、すごく大きな原因になるのでは、と思う。そのことを楽しみに、一歩一歩。(4/9)

無理がない、余裕がある、ということは何事においてもとても大事で、余裕のある人の普通は、こうしなければ、という凝り固まった考えでつい無理をしがちな人間の発想を、いつも大きく包み込んでくれている。(3/28)

強く、優しい人の余裕ある心に触れると、それだけで元気が湧いてくる。直接励まされたり、そういう言葉で伝えてもらわなくても、その人そのものから伝わってくる優しさ。それがどれだけ多くの人の力になっているか。そんな存在から学ぶことがたくさんあり、自分も少しでもそうあれたらと思います。(3/16)

音のシャワー。このところ、以前よりいろいろな周波数(?)の音が同時に聞こえたりするようになった。私の場合、以前から左耳から聞こえるのだけど、最近は、左から聞こえるいろいろな音を、右耳で調整(?、キャッチ?)しているような…?うまく言えないけれど、またなにか聞こえる音が増幅しているような、そんな感じがします。(3/15)

ふとした流れでの縁があり、そこからいろいろな種類のブラック岩塩との出会いがあって、これまで以上に岩塩がいろんな場面で活躍してくれている。うちに来てくれた岩塩、これから来てくれる岩塩は、この出会いを喜んでくれているだろうか。岩塩が喜んでくれる自分でいたいな。(3/6)

直感」の世界が始まった。何か大きな次の始まりのような気がする。(3/4)

耳の中から聞こえる金属音。初めて意識したのはもうずっとずっと前だったけど、いつもというわけではなかった。このところ、安定して聞こえている感じ。くじらが応援してくれているのかな。(2019/3/1)



大事なものを大事にするためには、いくらでも人から嫌われ、地球に喜んでもらう。(10/12)


みんなそれぞれ弱点というか、そこを突かれると弱い、というようなところがあって、その部分になると、頭では分かっているけれど、どうしてもいつも同じパターンに陥ってしまう、というようなことがあるのかなと思う。私も何かをきっかけに自分の弱さを感じた時、どうしても浮かんできてしまうことがあって、きっかけになった出来事より、自分の中でそれをより大きくしてしまい、一人で勝手に落ち込んでしまったりする。でも、それも本当は必要のないことで、自分の中に染み込んでしまったものや、そうさせる存在の力が働いているとしたら、そのことを意識してみると、その思惑通りになってしまっている自分を観察し、そこから抜け出すきっかけができる。落ち込んだり悩んだり、個人的なところにいると、自分のことでいっぱいになって、本当に今すべきことから遠く離れてしまう。いろいろあっても、何も考えず、まずは動いてみると、自分の中でも何かが動いたりして、そのいろいろがどうでもよくなることもあるから、小さなことでも自分で動きを作っていくことが大事な気がする。(9/28)

焦点がどこにあるか、って大事で、嫉妬や差別、嫌悪など、否定感情がベースにあると、誰かのことが常に気になって、それを表現したくなるのかなと思うけれど、否定感情を大事にしつつ、人のことばかり気にしていたら、何年経っても、人と自分を比べて…というところから離れられず(焦点が個人のまま)、本当にすべきことにたどり着けない。反省も、人と比べてのそれ(を表現すること)はあまり意味がなく、自分を見つめたうえで、自分なりにできることを淡々としていく中で、ついてくる力や変化を楽しめばいいように思う。(9/24)

例えば身体の痛みが強く出ていたり、思うように動かない時、精神的にきついことがあった時、それらが重なった時、ふと浮かぶことがある。私の生命の意思は?って。自分が今回の生を持つ前も、その前も、さらにその前も、、、どういう意思を持って、どんな人生を歩んだかの記憶はないけれど、もし、太陽の光に応援されながら、地球が本来の地球の姿を取り戻すためにここにいるのだとしたら、どんなに心身が病んでいようとも、いろいろな形で動きにくくされたとしても、今回は必ず本来の道を歩む(歩もうとする)はずだと。実際には、弱い自分を感じて情けなくなることも多いけれど、それでも、自分の生命の意思、というところをなんとなく感じてみると、それだけで、どこか芯の部分がしっかりするような気がする。そして、どんな時も支えられていることを思い出し、またいつものように歩んでいける。(8/24)

きっと、はるか昔は、ただ感じるままに動いていたのだろうな。何かおかしなことが起きたら(目の当たりにしたら)、考えるより先に反応して、動いたり、様子を見たり。だから、(エネルギー的に)間違いはなかったのだろうと思う。今は、何かの状況を前にして、その事実をそのまま受け止めるのではなく、思考で「これはいいものだから~のはずはない」とか、「これだけお金(手間、時間)をかけたのだから、ムダにできない」とか、あれこれ考えすぎて、目の前のこと(現実)が見えなくなってしまうのかなと思う。自分の感覚(感性)を、思考が覆ってしまい、遠回りしたり、手遅れになってしまったりということだけは避けたい。(8/20)

くじらを想うと、不安や思考から遠く離れ、ゆったりとした自分を感じられる。くじらって調和そのものの地球そのものなんだって、そのことを思うと、やっぱりうれしくなる。(8/18)

世の中から、「どうしよう…」がなくなったら、今とは全然違う風景が見えるのだろうと思う。家庭内や仕事などでのいろいろな問題事(と思っていること)も、「どうしよう」から離れてみれば、ただそのままを受け入れるべきひとつの風景。そこに思考を働かせて、なんとかしなきゃってなると、不安が膨らみ、さらに思考が忙しくなり、自分の重たさでその現実を固めてしまう。
世の中に迎合できる人にとっては、生きやすくても、そうでない人にとって、世の中は違和感だらけ。でも、そんな違和感だらけの世の中にいながらも、生命として生きることはできる。それは2つの顔を持って使い分けることではなく、どこにいてもそのままの自分で、ぶつからずやんわりと、でもここだけは、というところを大事にするということのように思う。いつか、逆噴射のように、周りから受けている負の力を吹き飛ばし、自分の影響力で周りが変わって(少しずつでも)生きやすくなる、ってなったらいいなと思う。人間だけを生きていたら、それはいつまでもできないから、一生命として、生きる。(8/15)

原因の世界が動くには、相手と同じ思考世界にいちゃダメなのだと思う。数の力や思考の力なんて到底敵わない、地球自然界の力に応援されているのだから、ただただ感じるままに、自分の感覚で動いていけばいいのだと、ただそれだけだと思う。(8/13)

ふと、「この時を待っていた」と浮かんできた。きっと、みんなでずっとこの時を待っていたんだ。
ずっと前から分かっていて、すべて予定通り。だから、何も心配することはないんだ。(8/10)

表現すればするだけ、反応や反動が心身の状態として返ってくる。それで自分を見つめられる。表現して終わりじゃない。表現し続け、見つめ続け、歩んでゆく。(6/18)

浮き上がる自分と観察する自分。自分っていったい何だろう?(6/15)

何度も出てくる「どうせ自分なんて何をやっても変わらない」という諦めの感情。以前はそれに覆われてしまっていたけれど、「これは一体どこから来るのだろう?なぜいつもそう思うんだろう?」と思ってみたら、何かが動いた気がする。(6/13)

役割やプロセスはそれぞれでも、すべきことは、自分の病みと向き合い、手放すこと。そして、自然界が喜ぶ自分でいること。それは、ここにいる誰もが同じなのではと思う。そのことを諦めたくない。(6/13)

みんなのために、誰よりも元気になってもらいたい人たちがいる。みんなのために、誰よりも厳しい経験をし続けてくれている(真を生き続けてくれている)人たち。自分にはそれができなかったということで、いつも負い目(申し訳なさ)を感じていたけれど、自分には、今すべきことがあって、それが自分の役割なのだと感じている。それがどれだけ厳しくても、自分がすべきこと。無理でも頑張りでもなんでもなく、自分が約束したことを知っているから。厳しさは誰かから課せられるものではなく、自分で向き合う中感じるもの。
力を入れるのは違うけれど、踏ん張らなきゃいけない時、今動かなきゃいけない時ってあると思う。今は自分のタイミングではなく、全体のタイミングで動く時。(6/11)

「変化」が、全体の中の自分の、あたり前のプロセス(仕事のひとつ)であるのか、それとも、自分だけのためにあるのか。
何をしても、何かを得ても、ご利益心(優越心・差別心)がそこにあれば、変化するどころか、すべてを壊してしまいかねないこと。忘れずにいたい。(6/7)

発せられる言葉や書かれている内容より先に伝わってくるもの。そこに正直に反応したい。(6/7)

浮かんでくるまま、頭を使わず言葉にする。枠を外して、もっと自由に。(6/4)

言葉の壁は身振り手振りで何とかなっても、「思考の壁」が分厚いと、心と心のコミュニケーションは難しい。頭空っぽにしていこう。(6/1)

エネルギーで反応しても、そこに否定感情はセットしない。(5/31)

ここまで来てふと思うのは、誤解を招く言い方かもしれないけど、実は存在の質がどうかなんてどうでもいいのでは、って。自分が心ある人だと信じて疑わず、そうでない(と思う)人を隔てるのは、すでに心無い人であることの証明だと思うし、自分の中に危うさを感じたら、逃げずに責任を持ってその負の影響力を失くしていく。重たくったってなんだって、生き直しはできるんだよって、そんな大きな懐の自然界に包まれているのだから、自分がどういう存在であれ、要は本気かどうかだけなのかなと…。そのためには、旬の無有日記と連動しながら、自然界が喜ぶことをするだけ。「すごい人」も「危うい人」もなく、最後にはみんなで笑いあえる風景が見える気がするから、何があっても、きっと大丈夫、って思える今。(5/31)

一緒の空間にいた時は普通だったのに、ふと今その人のことを思い浮かべると、なぜだか涙が出てきました。辛いとか、悲しいとかではない、もっといろんな感情が混じったような何か。もしかしたら、遠い過去の記憶?(5/30)

それをする理由、しない理由。何をしてもしなくても自由だけれど、少なくとも、人にどう思われるかを意識した正しい、正しくないというところで、そのことをごまかしたり言い訳はしたくないなと…。いつでもありのまま、等身大の自分で。5/24

頭でこうしたほうがいいかな、と思っても、なんだかその気になれなくて、という時や、その気はなかったけれど、いつの間にかそうしている時、あとからその理由がわかることがある。結局いつも、頭から始まったことはやっぱり違っていて(うまくいかなくて)、自分のなんとなくの感覚を大切にしていてよかったと思えることのほうが多い気がする。そして、知ること、実践すること、分かる(理解する)こと…すべてタイミングが大切なのだということも。頭が忙しいと、それらに気づきにくくなってしまうよう。
5/16

一歩を踏み出したと思ったら、何かが自分の足を引っ張る。前向きな発想をしたと思ったら、それを打ち消すように否定的な感情で全身が覆われてしまう。現実も、身体も、それらに引っ張られるように、本来からはかけ離れていた…。そんな体験の連続だったこれまでの人生の、その原因(正体)を知り、その力を失くすべく実践し、今、人間時間の再スタートの時にいる。一人一人の変化がひとつとなって、世の中のこれまで(の普通)を大きく変えるという、今までのどの時代にも叶わなかったことを、今みんなで実践して(しようとして)いること。(思考では)MEのことを知らず、厳しい中にいながら、それでも想いを繋いできてくれた、太陽の心を持つ人たちは喜んでくれているだろうか。そんなことがふと浮かぶ。(5/9)

自分を見つめることなしに、あれこれ(形だけ)動いてみても、表面的なところだけの変化で、原因の部分が変わらなければ、結局は元に戻ってしまう。だから、何をするにしても、自分自身の変化なくしては何も変わらない…のだけれど、それが動けない(動かない)理由にはならなくて、きっとそれは同時進行で進んでいくものなのだと思う。自身の観察と、要らないものを外し、ないものを育む作業。それは歩んでいく中でずっと続けてきて、これからも続くのだろうけれど、そこだけに焦点を置いていては、いつまでも動けないまま。同様に、現実や心身の状態がどうであれ、すべきことが目の前にあるのなら、自分なりのペースでできることは必ずあるはず。個人的なところがいろいろあっても、それを何とかしたいと思っているうちは堂々巡りで、形を変え、同じ様なことが次々と起きたり、自分の状態も変化の波には乗れないということを、頭では分かっていてもなかなか変えることができなかったけれど、”もうそこに焦点は置かない、何があっても、自分なりにできること、すべきことをする”と、何かが動いてから、現実や心身の状態にも、少しずつだけど、変化の兆しが見えてきた気がする。たとえ、どんなにジャマ(と思われる出来事)がやってきたとしても、自分の中に、それに力を与えるものが全くなかったら、いつまでも同じ状態は続かないのだろうと。まだまだいろいろあるけれど、自然界のサポートをムダにせず、自然界が喜び、応援してもらえるような自分でいられたらと思う。3/18

心身の状態も、現実のいろんな問題事も、いつもつきまとっていて、それを諦めていた自分。個人的なところでいっぱいいっぱいだったけれど、今は何があってもそこに留まらず、そういういろいろがあっても、それでもめげずに歩んでいく、という意思が自分を支えてくれている気がする。そう、何があっても、「無有日記」と共に歩んでいく。そのことを約束した自分がいるから…。
3/10

ひとりひとり歩んでいるようでも、「全体の中の自分」というところを思えば、自分自身の状態が全体に影響しているという、とてもシンプルであたり前のことを忘れずにいたいと思う。「正直でいる」ことは、自分の想いを大切にしても、否定感情を吐き出したり、誰かにぶつけることではないし、正直でいることを怖れて、自分をごまかし続けて表現しなければ、滞り、いつまでも変化とは無縁でい続けてしまう。その時々、ありのままの自分でいることで、出てきた感情は、自分自身を観察する大切な機会だから、外に向けず、とことん、自分自身を見つめてみる。自分自身ではどうにもならないところ、全てを委ねなければいけないところもあるけれど、自分がやらなければ浄化できない部分もある。自分の中に甘えや依存がないかを見つめるだけでも、何かが変わってくる気がする。2/16)

こうしなさいと言われたことを守るのは簡単でも、自由な中でどう動くかは、自分自身の責任が伴うから、厳しさを感じることもあるけれど、余計な思考を働かせず、個人的な感情に囚われず、ただ自分のなんとなくの感覚を大切にしていくしかないなと思う。それで失敗したら修正して、次への原因に変える。コロコロ考え(行動)や気持ちが変わったとしても、その時々の自分に正直でいる。正解なんて、考えたってないのだから…。(2018/2/12)

ムーさんの世界に縁したから気づくこと(知ること)ができた本来の普通。その普通を実践しながら歩む今だけれど、縁しなければ、いまだ「世間一般の普通」を支える中にいて、そのことに永遠に気づくことができなかったかもしれない。そんな自分が今、ここにいるからこそできることを、自分なりにやっていく。(12/7)

想いを新たにしたなら、意識的にでも、自分で動きを作り続けていかないと、すぐにまた回転が鈍ってしまう。生命にとって、動くことより、停滞することのほうがきついはず。(12/2)

反省を言葉にすることで安心し、それを良しとして、同じことを繰り返してしまうとしたら、それは、ただのポーズ。本当に反省しているのであれば(責任ある自分でいれば)、反省を言葉にせず、そうではない自分を生きる。(12/1)

誰かと交流する、その手前にあるもの。淋しさを埋めるためや、不安を何とかしようとしたり、グチを聞いてもらうためだったり…。生命を生きる(生きようとする)自分であれば、もう、遠いところにあるもの。誰にも寄りかかることなく、ひとりでいても大丈夫なひとりひとりが交流するとき、それは自然と支え合い、お互いがより大きく成長する機会となり、意識するまでもなく、「全体(みんな)にとって」が大切にされている。まずは、ひとりでいる時の空間(自分)がどんなか、を見つめることから。(11/26)

「同じ土俵で闘わない」ということ。思考(感情)に対して思考(感情)で反応して、頭で理解したり、してもらったように見えても、結局は粗さと粗さがぶつかっているだけで、ムダにエネルギーを消耗するだけ。思考や感情で反応しただけ、自分の中に相手と同じものがあるということだから、気づけば回転も鈍ってしまう。ムーエナジーは水や空気のように、決してぶつからず、相手を包み込んで変化に乗せてしまうから、そのエネルギーをどこまでも通せる自分でいれば、何も考えなくても、いろいろなことが変わっていく。誰かを変えたり、何かを変えたいと思ったら、やっぱりどこまで行っても自分自身が変わること。(11/18)

結果(形)として何をどれだけやったかが大事なのではなく、形になる前の想い(エネルギー)が、どういう未来を引き寄せようとしているかということ。ただ想うだけでOKなのでも、たくさん動けばいいのでもなく、手前の想いと、それを具現化(実践)していくこと。その両方が、ここにいることの意味、未来への責任。(2017/11/9)



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